24日、みよし市立歴史民俗資料館の企画展に出かけた。展示スペースに所狭しと展示された灰釉陶器と緑釉陶器素地。そのなかで、黒笹14号窯・90号窯の緑釉陶器素地、亀ヶ洞窯の緑釉陶器にしぼって、時間をかけて見学した。これまで見る機会がまったく無かった現地の資料を眼の前にして、胸が高鳴る。企画・展示・図録の全体から、担当された方の意欲があふれ出ているように感じた。
数時間、存分にためつすがめつした。それでも名残り惜しく思いながら外に出る(若い頃であれば次の機会がある。今の自分には次があるとは限らない…そう感じることが増えた)。
すでに午後。当初予定の半分もこなせない時間になっていた。
赤池駅から名古屋市天白区との市区境を歩いて南下する。東郷町に入り、さらに区町境を越え、緑釉陶器生産地(熊ノ前、亀ヶ洞)とされる緑区の扇川沿いを西に進み、地下鉄徳重駅に至るルートだ。京都に続き、今回も、ただ歩くだけ…(さらに南に続く豊明市は、今回歩く時間がなかった。“次の機会”があれば嬉しい)。
扇川は、その流路が9世紀までさかのぼることができるならば、猿投産緑釉陶器の輸送路ではなかったか、と(私だけが)妄想している河川だ。ただ、黒笹窯で一次焼成された緑釉陶器素地=亀ヶ洞窯の緑釉陶器となるのかどうか、不明だ。また、扇川の谷筋を、古代東海道想定ルートの一つが横切ることを考えると、陸路輸送が自然ともいえる。
緑釉陶器の輸送水路として妄想していた扇川は、いきなり大池から発していた(大池は新しい貯水池のようにも思える)。川の水量は豊富とは言えず、人工的な段差がつけられてはいたけれど、暗渠にはなっていなかった。
【補記:その後、「大池」について調べると、やはり人工的な“ため池”と分かった。平安時代、もし緑釉陶器の輸送路として扇川が利用されていたとすれば、それは徳重に近い神沢池付近からの流れになりそうだ。亀ヶ洞窯の緑釉陶器輸送手段として、陸送に分があることになった…それでもまだ水運の可能性をあきらめてはいないのだが。】
大池から徳重までは下り坂だった(2㎞ほどで標高差は約25m)。途中にかかる小さな橋の名を確かめながら歩く。藤塚橋、兵庫橋と、左岸の地名が付けられているなかに、緑釉陶器窯に係る地名の「熊の前橋」、「亀ヶ洞橋」もあった。右岸の歩道から眺める左岸の景観からは、9世紀の姿を偲ぶことは難しかったが、この川の先に天白川、かつての鳴海潟、伊勢湾がある…そう思い描きながら歩いた。
大池から下流方面 (西)を望む…奥の白く光る部分は大池の水面。
熊の前橋…扇川左岸(写真右手)に小学校がある。ちょうど下校時間のようだった。
亀ヶ洞橋…このあたりからようやく水面が見え始めた。いつか、扇川が生き生きとよみがえり、輝く流れになってほしいと感じた。
扇川沿いの緑地帯に咲くクチナシ…ちょっと休んでいけば?と声をかけられたように思い、花のそばで一息つくことにした。
企画展の華やかなチラシと、展開図から作った立体模型(緑釉陶器素地の手付き瓶を模したもの)…不器用な私は、完成まで2時間ほどかかった。出来上がると、白さとシンプルさがマイセンの磁器のように思えた。旅の記念にもなった。