enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

猿投産緑釉陶器の生産地へ

 24日、みよし市立歴史民俗資料館の企画展に出かけた。展示スペースに所狭しと展示された灰釉陶器と緑釉陶器素地。そのなかで、黒笹14号窯・90号窯の緑釉陶器素地、亀ヶ洞窯の緑釉陶器にしぼって、時間をかけて見学した。これまで見る機会がまったく無かった現地の資料を眼の前にして、胸が高鳴る。企画・展示・図録の全体から、担当された方の意欲があふれ出ているように感じた。 
 数時間、存分にためつすがめつした。それでも名残り惜しく思いながら外に出る(若い頃であれば次の機会がある。今の自分には次があるとは限らない…そう感じることが増えた)。
 すでに午後。当初予定の半分もこなせない時間になっていた。
 再び日進市の地下鉄赤池駅までバスで引き返す(旧地形図では、傍示本を通って北西に向かう道があったが、迷わずに辿りつけそうなルートを選んだ)。
 赤池駅から名古屋市天白区との市区境を歩いて南下する。東郷町に入り、さらに区町境を越え、緑釉陶器生産地(熊ノ前、亀ヶ洞)とされる緑区の扇川沿いを西に進み、地下鉄徳重駅に至るルートだ。京都に続き、今回も、ただ歩くだけ…(さらに南に続く豊明市は、今回歩く時間がなかった。“次の機会”があれば嬉しい)。
 扇川は、その流路が9世紀までさかのぼることができるならば、猿投産緑釉陶器の輸送路ではなかったか、と(私だけが)妄想している河川だ。ただ、黒笹窯で一次焼成された緑釉陶器素地=亀ヶ洞窯の緑釉陶器となるのかどうか、不明だ。また、扇川の谷筋を、古代東海道想定ルートの一つが横切ることを考えると、陸路輸送が自然ともいえる。
(一方で、供給先の東国拠点の一つが、相模川河口右岸の平塚市林B遺跡だとすれば、海上輸送が自然でもある。まずは、猿投産緑釉陶器の生産地側の搬出拠点が明らかになることが必要だと思う)。
 緑釉陶器の輸送水路として妄想していた扇川は、いきなり大池から発していた(大池は新しい貯水池のようにも思える)。川の水量は豊富とは言えず、人工的な段差がつけられてはいたけれど、暗渠にはなっていなかった。
【補記:その後、「大池」について調べると、やはり人工的な“ため池”と分かった。平安時代、もし緑釉陶器の輸送路として扇川が利用されていたとすれば、それは徳重に近い神沢池付近からの流れになりそうだ。亀ヶ洞窯の緑釉陶器輸送手段として、陸送に分があることになった…それでもまだ水運の可能性をあきらめてはいないのだが。】
 大池から徳重までは下り坂だった(2㎞ほどで標高差は約25m)。途中にかかる小さな橋の名を確かめながら歩く。藤塚橋、兵庫橋と、左岸の地名が付けられているなかに、緑釉陶器窯に係る地名の「熊の前橋」、「亀ヶ洞橋」もあった。右岸の歩道から眺める左岸の景観からは、9世紀の姿を偲ぶことは難しかったが、この川の先に天白川、かつての鳴海潟、伊勢湾がある…そう思い描きながら歩いた。

イメージ 2
みよし市歴史民俗資料館…ここから境川をさかのぼる北北東3.5kmほどの地点に、黒笹90号窯跡が位置する。

イメージ 7
大池から東(みよし市方面)を望む…ここから愛知用水・愛知池を経た先の、東北東6.5kmほどの地点に黒笹90号窯跡が位置する。

イメージ 1
大池から下流方面 (西)を望む…奥の白く光る部分は大池の水面。

イメージ 3
熊の前橋…扇川左岸(写真右手)に小学校がある。ちょうど下校時間のようだった。

イメージ 4
亀ヶ洞橋…このあたりからようやく水面が見え始めた。いつか、扇川が生き生きとよみがえり、輝く流れになってほしいと感じた。

イメージ 5
扇川沿いの緑地帯に咲くクチナシ…ちょっと休んでいけば?と声をかけられたように思い、花のそばで一息つくことにした。

イメージ 6
  企画展の華やかなチラシと、展開図から作った立体模型(緑釉陶器素地の手付き瓶を模したもの)…不器用な私は、完成まで2時間ほどかかった。出来上がると、白さとシンプルさがマイセンの磁器のように思えた。旅の記念にもなった。