「 三十講の歌合せに、五月雨を
594 五月雨は 美豆(みつ)の御牧のまこも草 かりほすひまも あらじとぞ思ふ 」(『相模集全釈』から)
およそ一千年前の長元8年5月16日、この地で歌人相模の歌が詠まれると、人々が大きくどよめいたらしい。この時、歌人相模も40代半ばになっていた。相模国から都に戻り、大江公資が去ってから10年ほど経過している。彼女は、どのような思いをこの歌に託したのだろうか、と思う。なぜ、人々はどよめいたのだろうか、とも思う。今の私にはまだ分からないが、いつか、納得のゆく答えが見つかると嬉しい。
「高陽院邸跡」の説明板
「高陽院跡」と丸太町通(左京二条二坊九町にあたるこの「高陽院跡」は、写真右手の丸太町通をはさんで南にも広がり、全体で九・十・十五・十六町の4町分を占めるという。鳥羽天皇皇后の藤原泰子(1095~1155)がこの高陽院に住み、「高陽院」と呼ばれたことも、あとになって知る。不勉強を後悔する。)
高陽院と対角的な位置にある冷然院(平安京左京二条二坊三町~六町)についても、事前に調べておくことをしなかった。その概要について、発掘調査概報から引用させていただき、覚書としたい。
「冷然院は三町から六町までの敷地をもつ歴代の後院として知られ、史料上の初見は、弘仁七年(816)の先に述べた嵯峨天皇の行幸にある。貞観十七年(875)に冷然院は大規模に焼失する。これが第一期冷然院にあたり、第二期にあたる冷然院が元慶四年(880)に再建されたとされるが天暦三年(949)失火により焼失する。後に名前を冷泉院と改め再建(第三期)されるが、その後も冷泉院は焼亡と再建を繰り返すことになる。その後、天喜三年(1055)に冷泉院は殿舎を壊し、一条院に移築されるなど衰退していく。出土遺物がこの時期にかかるものが多かったのも、冷泉院の衰退の流れを考える上で貴重な資料となろう。またそれ以後の12世紀中頃までの遺物も出土する事から11世紀中頃から12世紀中頃をもって冷泉院は徐々に終焉を迎えていったと推定される。」
【『京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報 史跡二条離宮(二条城)・平安宮神祇官・平安京冷然院跡』(2002年 財団法人 京都市埋蔵文化財研究所)より引用】
冷然院跡からは9世紀初頭の猿投窯で作られた精緻な花文・葉文の緑釉陶器が出土しているが、同様のものは相模国府域内では出ていない(素人の私の知る限り…)。ただ、9世紀も前半の黒笹14号窯式に相当する緑釉陶器は、国府域内の“四之宮下ノ郷廃寺”から僅かに出ているようだ。“四之宮下ノ郷廃寺”は国司館跡とも推定されている遺跡だ。それらの早い時期の緑釉陶器は、いったい誰によって持ち込まれたのだろうか。
「冷然院跡」の石標と説明板(二条城北東角)
なお、二日目に訪ねた淳和院跡出土の緑釉陶器についても、次の引用文によって、復習の覚書としておきたい。
「(前略)
冷然院や源氏と緑釉陶器の関わりに関して平尾政幸氏と尾野善裕氏の論文が存在し、現時点では最も詳細に語られている。緑釉陶器は嵯峨天皇が流行を作りだし、その生産と流通に冷然院を媒介として深く関わりを持っているという推定が出土遺物から可能である。淳和院と緑釉陶器生産については、桟敷窯出土の「淳和院」名の匣から、製品を納める先が複数あり、その一つが淳和院であることがわかる。嵯峨天皇の遺産は冷然院が仁明天皇と正子皇太后に受け継がれ、淳和院には正子皇太后を経由して嵯峨院が併合されたと考えられる。