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私の第三十四夜をつづります。

緑釉陶器…雑感(4)

 ~尾野善裕氏の講演「平塚市出土緑釉陶器の歴史的背景~なぜ大量の緑釉陶器が古代相模にもたらされたのか~」を聴いて~ 〔3〕緑釉陶器の輸送手段は?
 
 尾野氏の講演を懸命に咀嚼しながら、ふと疑問に感じた点もあった。それは緑釉陶器の輸送手段についてだった。尾野氏は講演のなかで、「9世紀中頃の淳和院に所属していた人物には、往還の人や馬を強制的に雇い上げても国司や郡司によって直接処罰されることがないという、都鄙交通上の特権があった」ので「嵯峨・仁明源氏の一族は、尾張産の緑釉陶器を最も入手しやすく、それを相模へと運ぶのにすこぶる有利な立場にあった」(当日の配布資料から引用)と指摘された。
 この想定に対し、多少の違和感をもった。私はこれまで、相模国府にもたらされた緑釉陶器については…というより、緑釉陶器に限らず、『大量の物資、重い物資は、海路が利用できるのであれば、海岸線伝いの海路が使われるのだろう』と思い込んでいた。そして、緑釉陶器を多量に出土した林B遺跡が相模川河口に立地していることから、武蔵国など周辺諸国への流通面でも、厚木付近まで相模川の水運が利用できるのでは?と考えていた。そうした思い込みから、尾張産緑釉陶器を陸路・人馬で輸送する…強制的な雇い上げという手段を用いて…というイメージに違和感を覚えたのだと思う。
また、輸送先の相模国府の立地だけでなく、ことに尾張国の猿投窯については、河川交通を利用しやすい立地と考えていた。扇川や天白川を下れば、直ぐに伊勢湾へと通じたのではないかとイメージしていたのだ。
今回の講演では質問の機会がなかったため、出席されていた研究者の一人の方に私の疑問をぶつけてみた。その答えは、「…海上輸送は気象条件に大きく左右されやすいから…やはり、人馬と船、両方使われたのでは?」というものだった。やはり、そうなのだろうか。としても、猿投産緑釉陶器の東国への流通については、の割合で海上輸送が優勢なのでは?と、今もそのイメージを捨てきれないでいる。
補記:今回、林B遺跡出土の緑釉陶器について、私は(素人の俄か勉強による思い込みから)尾張国猿投窯の製品と想定してきた。しかしながら、「みどり色の器展」における林B遺跡第2地点出土資料のネームプレートは、単に「東海系」とだけ記されていた。そして、他の出土地点では「猿投窯」と特定されているものもあった。このことから、林B遺跡第2地点出土の緑釉陶器が、猿投窯の製品ではない可能性があるのかもしれない(「東海系」の範疇には尾北窯なども含まれるのだから)。林B遺跡第2地点出土の緑釉陶器の産地は猿投窯なのか? 猿投窯ではないのか?…今、これこそが私にとって最も気がかりな問題になっている。
 
林B遺跡第2地点出土の緑釉陶器(東海系)…火災で被熱したものとされ、本来の輝きは失われて痛々しい。
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