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私の第三十四夜をつづります。

覚え書:長者窪遺跡第1地点

 8月初め、「平塚市遺跡調査・研究発表会」に参加した。なかでも興味深かったのが「長者窪遺跡第1地点」の発表だった。
 興味のポイントは次のようなものだった(註は、その後に調べ直してまとめたもの)。

相模国庁の約1㎞北に位置する当該遺跡で初めての発掘調査であったこと。
 (註:相模国府域は砂州砂丘列〔第1A~第12列〕のうち、第3~第4列の東半部に展開する。それに対し、長者窪遺跡は第1B列〔第1A列とともに、砂州砂丘列の最北部〕に位置する。)

*「長者窪遺跡第1地点」の南500mには林B遺跡、東隣には道半地遺跡が位置すること。
 (註:林B遺跡第2・4地点では、多量の猿投産緑釉陶器や石製丸鞆、9世紀後半の掘立柱建物・竪穴建物・井戸群などが発見されている。また、道半地遺跡第4地点では、9世紀後半の2間×3間の掘立柱建物や木枠持ちの井戸、緑釉陶器皿〔内面に沈線〕・緑釉陶器埦〔尾北産か?〕・灰釉陶器転用硯〔朱墨付着〕・須恵器瓶〔漆付着〕・白磁碗〔蛇の目高台〕などが発見されている。なお、未報告の第3地点〔第4地点の南隣〕でも、掘立柱建物28・竪穴建物9・井戸8が発見されている。)
 
 つまり、「長者窪遺跡第1地点」が、近隣の道半地遺跡や林B遺跡に連なるような性格を持つのかどうか、ひいては相模国府と係わるような官衙的な遺跡が、砂州砂丘列の北端まで広がる様相が見えてくるのかどうか、といった点に興味の中心があった。さらに凝縮すれば、「長者窪遺跡第1地点」に緑釉陶器が出ているのかどうか…その一点だけでも知りたく思った。
 
 果たして期待した通り、「長者窪遺跡第1地点」でも、緑釉陶器は出土していた。
 しかし、当日の発表は、おもにスライドを中心とした概要報告で、遺物は展示されていなかった。そのため、「長者窪遺跡第1地点」の1号井戸(平安時代)出土の緑釉陶器埦(破片)も、一瞬映されたスライドでは、色調などもはっきりとは分からなかった…たとえ実物を見たとしても、素人眼では結局は何も分かりはしないのだけれど…(この緑釉陶器片については、「(遺構の)廃絶に伴って捨てられたもの」で、およそ10世紀前半頃と判断されているようだった)。 
 なお、「長者窪遺跡第1地点」の2号竪穴住居址は9世紀代、1号井戸址より古いとされる比較的大きな11号溝址は平安時代以前のものとされていた。東隣の道半地遺跡第4地点では、7世紀代から9世紀後半にわたる遺構が出ているので、「長者窪遺跡第1地点」のこれらの遺構も、道半地遺跡第4地点に連なる性格のものとしてとらえることもできそうだ。
 
 「長者窪遺跡第1地点」の報告を聞いたあと、数日間、相模国府に関するさまざまな資料をあれこれと広げては、とりとめのないことを考えた。そして、しばらく遠ざかっていた”相模国府の世界”が、自覚していたよりずっと疎遠な存在になっていたことを実感した。そして、漠然とした思いではあるけれど、次のようなことも新たに感じた。
相模国府域周辺の遺跡については、古墳時代の7世紀代からとらえ直す必要があるのではないか。
相模国府の全容を概観するには、やはり国府域の主要遺跡だけではなく、周辺の遺跡を連続的に包括しながら、考察し直す必要があるのではないか。

 こうした思いとともに、いつもの緑釉陶器についての妄想の道筋もたどった。
 そして、『平塚市史 11下 別編 考古(2)』のP34・図1「平塚の砂丘列と主要な遺跡の分布」において、「長者窪」の地名がポツンと記載されていることの意味についても想像してみた。今回の「長者窪遺跡第1地点」のような発掘調査を機として、新たな視点をもとに、相模国府研究がさらに展開してゆくことを期するものであったのかもしれない…などと、そんなふうに想像した。