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私の第三十四夜をつづります。

「稲荷前A遺跡第4地点」~その第4砂丘列東端上の位置~


 
猛暑がようやく衰えはじめた24日、「第8回平塚市遺跡調査・研究発表会」が開かれ、私も参加した。
また、同時開催の「平塚の遺跡ー近年の発掘調査成果ー」(平塚市博物館)で展示された出土遺物も見学した。

今回、その出土遺物展示のなかで、国府域中枢地区を構成する「稲荷前A遺跡第4地点」のその位置について、改めて思うことがあった。
(「稲荷前A遺跡第4地点」の出土遺物を見るのは、2004年秋期特別展「掘り起こされた平塚Ⅲ」-『遺跡が語る地域の歴史』〔平塚市博物館 2004年〕での展示以来。墨書土器や緑釉陶器香炉蓋、石銙巡方などが新たに精選された今回の展示は、とても興味深かった。)

 

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稲荷前A遺跡第4地点出土遺物①

 

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稲荷前A遺跡第4地点出土遺物② 


稲荷前A遺跡」は、国府域中枢地区(第3・第4砂丘列東半部。ちなみに、”相模国庁”は第3砂丘列東端に位置する)のなかでも、第4砂丘列東端に位置し、北は高林寺遺跡(その南半部)、西は稲荷前B遺跡(その南半部)に接している。

これまで、その第1・第2地点からは「国厨」・「大住厨」墨書土器、第3地点からは「旧豉一」の墨書土器などを出土して注目されてきたが、今回の第4地点でも、壺Gや緑釉陶器香炉蓋、墨書土器など、有数の資料が出土している。
かつての私は…素人の短絡的な妄想から…標高10m前後の稲荷前A・B遺跡や、高林寺遺跡(南半部)が位置する第4砂丘列東端部について、”大住郡衙推定地”としてのイメージを持っていた。
また、”大住郡衙”に先行する”大住評衙”については、第3砂丘列東端上の”六ノ域遺跡”を想定していた。その第3地点で、掘立柱建物群の特異な変遷が見られることや、国府域内でのかなり早い時期の資料として、箆書「住」須恵器転用硯が出土していることを理由に…。

しかし、私の知りうる限りでは、稲荷前A・B遺跡や、高林寺遺跡(南半部)のこれまでの調査からは、”大住郡衙推定地”を裏付けるような成果は上がっていない。
(つまり、相模国府域内では、茅ヶ崎市で発見された”高座郡衙”に匹敵するような郡衙遺構がいまだ確認されていない。)

ただ、今回の出土遺物の展示をきっかけに、改めて、この第4砂丘列東端の地域では、やはり、”大住郡”による活発な活動が展開していたのではないだろうか?という思いがよみがえった。

そんな思いが呼び覚まされたのは、10年以上も昔に個人的な覚書として作った”墨書土器データ”(「大住」や「郡」などの文字を含む墨書土器を抽出した一覧表。元データは『平塚市内出土の墨書・刻書土器』〔平塚市史 別編 考古 基礎資料集成3 2001年〕)を見直したためだった。

その昔のデータによれば(元データのうち、判読しがたい?と僭越ながら判断したものや、「大」一文字のものは除外した)、「大住」「住□」「□住」「住」「大住厨」「大厨」「郡厨」の文字を記した墨書土器19点*のうち、14点**が第4砂丘列東端上の遺跡で出土している。
(内訳は、”高林寺遺跡の南半部”で6点+”四之宮下郷廃寺”で1点、”稲荷前A遺跡”で4点、”天神前遺跡”で3点)

この第4砂丘列東端上での出土点数14点**が、市内出土点数19点*の7割強を占めるという結果は、やはり、この地域での”大住郡”による活動の集中を示すものではないだろうか?・・・改めてそう感じたのだ。

今後、相模国府研究がどのように進展してゆくのか、そして大住郡衙について、どのような新発見があるのか…これからも、調査成果を見逃さないようにしながら、自分の妄想を点検してゆきたいと思う。