enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

六ノ域遺跡第20地点

f:id:vgeruda:20220227094552j:plain六ノ域遺跡第20地点の現場(西側から):
右手(現場の南辺)で説明する方はSI20の遺構上に立っている。1辺10m余の巨大な竪穴住居址であるという。浴槽ほどの大きさの柱穴から建ちあがる柱とそれらが支える上屋の構造がどのようなものになるのか、想像もつかない。

 

27日、友人と何年ぶり?かで現地見学会に出かけた。
六ノ域遺跡第20地点…相模国府の中枢域ともあって、『どんな遺構や資料が出たのだろう!』と期待がふくらむ。

その現場は、市立大野小学校の北裏手にあたり、六ノ域遺跡第3点の東側に位置していた。当日の配布資料によれば、今回の第20地点1区の調査では、次のような遺構・遺物が検出されていた。

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【主な遺構】
1面(中世):
 柱穴列1条 溝状遺構1条 土坑21基 ピット9基
2・3面(古墳時代後期~奈良・平安時代):
 竪穴住居址29軒 竪穴状遺構6軒 掘立柱建物址8棟 柱穴列1条 溝状遺構22条 
 井戸址7基 土坑46基 柱穴380基

【主な出土遺物】
 土師器 須恵器 灰釉陶器 緑釉陶器 
 中世陶器 青磁 白磁 
 瓦 土製品(土錘など) 
 石器・石製品(磨石、石鏃、砥石等) 
 金属製品(釘、刀子、鏃等の鉄製品、蓋、飾り金具、鏃等の銅製品) 
 銭貨等

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まず、この第20地点の西隣に位置する六ノ域第3地点の調査では、密集した23棟の掘立柱建物群と16軒の竪穴建物群が検出されている。
掘立柱建物群については、7cから10cにかけて展開する「相模国府の主要な曹司群の一角」(『平塚市史』2003年)とされ、また竪穴建物群については、「一部 掘立柱建物と共存するが、他の住居は掘立柱建物廃絶以後、10世紀初頭~12世紀前半のもの」と分析されている。

そして、調査報告者が「特殊遺物の出土から、一般の集落跡・建物跡とは考えられない」と指摘する第3地区は、考古学の素人の私にとって、密度が高く複雑すぎる遺跡だった。

ただ、これまで頭の片隅にひっかかっていたのが12号住居(下郷編年3~4期)出土の箆書須恵器だった(転用硯の須恵器蓋の天井部内面に「住」の文字が書かれている)

この資料については、2年前、『enonaiehon』の

「稲荷前A遺跡第4地点」~その第4砂丘列東端上の位置~ - enonaiehon (hatenadiary.jp)

のなかで次のように書いている。

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「…かつての私は…素人の短絡的な妄想から…標高10m前後の稲荷前A・B遺跡や、高林寺遺跡(南半部)が位置する第4砂丘列東端部について、”大住郡衙推定地”としてのイメージを持っていた。
また、”大住郡衙”に先行する”大住評衙”については、第3砂丘列東端上の”六ノ域遺跡”を想定していた。その第3地点で、掘立柱建物群の特異な変遷が見られることや、国府域内でのかなり早い時期の資料として、箆書「住」須恵器転用硯が出土していることを理由に…。

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つまり、私にとっての六ノ域遺跡第3地点とは、”大住評衙”のイメージ…妄想・幻想…のままで止まっているのだった。

しかし今回の第20地点の調査では、この箆書「住」須恵器と近い年代観の大型の竪穴住居址群が検出され(そのうち、SI20は1辺10m余の巨大なもので、配布資料では「有力者が居住」か?と推定されている)、第3地点の箆書「住」須恵器を思い出したことで、消えかかっていた妄想が再燃したのだった。

また、今回の第20地点の出土資料として

*「▢(「守」か?)(『もしや相模「守」?』という妄想によって、私にはそう読めた)墨書土器
*陰刻花文の緑釉陶器皿(六ノ域遺跡の試掘で出土している資料№11‐38〕によく似た二重花弁の文様)
*軒平瓦(珠文縁飛雲文に似た文様)

などが展示されていて、やはり特別な遺跡としての表情を見せているように感じた。

今後、この最新の調査結果が平塚市立博物館で改めて展示される機会(3月19日~5月8日)があることも分かり、にわかに元気が湧いてきた。

考古学を学ぶ機会から遠ざかって久しいけれど、今回の現地見学会をきっかけに、また新たな気持ちで学び直してみようかな、と思えるようになった。それだけで嬉しい。