enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

伊勢原市西富岡・向畑遺跡出土の緑釉陶器

 3日、伊勢原市日向薬師からの帰り道、西富岡・向畑遺跡の見学会に参加した。
 第二東名建設に伴う調査もすでに10年に及ぶことになる。巨大な力が地上と地下の景観や歴史を押し潰してゆく。
 その一方で、地下に堆積して眼に見えなかった歴史が掘り起こされ、考古学的な成果が積み重ねられてゆく。そして、私はと言えば、関心のある遺跡の現場や遺物を見学しては、ただ節穴のような眼で、興味本位で楽しむだけなのだ。
 
 3日は、調査が終わった埋没谷が再び埋没する前に見学する最後の機会のようだった。
 遺跡の西には第二東名の異様な橋桁がビルのように林立している。今は西の空に青く連なる大山の山並みも、いずれ、大蛇のような高速道路の陰に隠れてしまうのかもしれなかった。

 見学会では「西富岡・向畑遺跡の古代」についての講座を聞くこともできた。予想外のまたとない機会だった。10年前に銙帯金具一式が出土した伊勢原市№160遺跡や、その後の調査成果を加えた形での見解が示された。
 その概略は、
*”官衙出先機関)が存在する集落”…具体的には、森林資源を活用して、渋田川などの河川を使って、相模国府あるいは大住郡に建築資材を調達・供給する公的機関…としての性格を持つと想定されること
*竪穴建物・掘立柱建物は、それらの作業従事者の住居・作業場などと想定されること
 というものだった。

 講座で示されたような流通路としての渋田川という視点は、相模国府造営期やその後の政治・経済活動の盛期において、渋田川が相模川と同じように活用されていた可能性を示唆しているのだと思う。
 そして、その視点に立てば、相模国府域の西に展開する厚木道遺跡・新町遺跡といった遺跡の性格についても、渋田川による河川交通を利用しながら成立した可能性などを考えてみるべきなのかもしれないと思った。

 なお、講座で配布された資料には、「財団調査出土資料」の一つとして、見込・口縁に花文が施された緑釉陶器片の写真が載っていた。実測図は無かったけれど、素人眼では猿投産の皿のように見えた。そして、その花文は、相模国府域出土の緑釉陶器のなかでは、高林寺遺跡第13地点や六ノ域遺跡(H11-38)、厚木道遺跡第3地点の資料と似通うように見えた。
 なかでも厚木道遺跡は、伊勢原市№160遺跡(西富岡・向畑遺跡)とは沼目・天王原遺跡を経由するような形で、水路の渋田川を通じても、また陸路(あくまでも想定上のルート)によっても、国府域西方から緑釉陶器を運ぶことが可能な立地にあると思った。
 京都産緑釉陶器、黒笹14号窯式の灰釉陶器、「大住」・「井」墨書土器の出土、さらには大量の馬骨の埋納土坑や大規模な井戸の存在などが目を引く厚木道遺跡については、国府域と並列に見直してゆくべき遺跡なのだと、改めて考えさせられた講座だった。

イメージ 1
西富岡・向畑遺跡の埋没谷と大山、そして第二東名の建設現場(東から):
かつての№160遺跡の位置は、見学者が立っていた場所の斜めうしろ(南東側)の斜面下だったと思う(たぶん…)。

イメージ 2
古代の埋没谷から出土した緑釉陶器:
右奥の細片は胎土が白く軟らかそうで、色合いも淡い黄緑色(厚木道遺跡の遺物で見かけた畿内産のものに似ているように見える)。左手前の高台断面を見せる底部片は、おそらく花文が無いので、裏返しに置かれているのだろうと想像。やや暗い抹茶色で、高台の断面は長方形より三角形に近いのだろうか。

イメージ 3
古代の埋没谷(16区)から出土した墨書土器(「中」2点、「奥」2点、「木」1点との説明):
「木」墨書土器は、相模国府域で私が知る限りでは、2点出土している。
*諏訪前A遺跡第1地区(四之宮下郷第4区)/遺構外…須恵器坏(底部外面【註:「底部内面」か?】、底径約56㎜)
*七ノ域遺跡第3地点/遺構外…土師器坏(底部外面、口径120㎜・底径66㎜・器高40㎜)