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私の第三十四夜をつづります。

林B遺跡の緑釉陶器(2)

~林B遺跡第2・第4・第6地点から出土した緑釉陶器(図化された104点)について~
 
平塚市史 別編 考古 基礎資料集成2 平塚市内出土の緑釉陶器』(平塚市博物館市史編さん担当 2001年)をもとに分類〕 
 
〈1〉残存部で文様を確認できる点数
〈2〉残存部で輪花を確認できる点数
〈3〉器種別点数
 
〈1〉文様あり 48点
           【その内訳】
           陰刻花文 38点…見込の花文中央は「〇」の形がほとんど
            陰刻円文 10
     
〈2〉輪花あり 42 
                【うち、文様を持つもの】
           陰刻花文 29
         陰刻円文 7
  *稜埦・稜皿は「輪花無し」がほとんど
  *稜を持たない埦・皿類で口縁部が残るものは「輪花」がほとんど 
 
〈3〉器種別   埦 45点、 稜埦 26点、 小型埦 4
     皿 15点、 段皿 7点、  稜皿 4点、  耳皿 1
    瓶 2  
  *器種の比率は、埦類が7割 対 皿類が3割 
 
以上をもとに、林B遺跡の緑釉陶器(図化された104点のみ)を分類すると、
輪花埦・輪花皿類(ほとんどが陰刻花文や陰刻円文を持つ)
稜埦(ほとんどが輪花や陰刻花文・陰刻円文を持たない)
 のおよそ二種類に大別できるように思う。  
そして、林B遺跡の緑釉陶器のなかに、仮に淳和院が係わって尾張国猿投窯で(一定程度大量に?)一括生産され、相模国や東国諸国に向けて供給されたものがあると想定した場合、それは、これらの①輪花埦・輪花皿類、②稜埦の二種類ではないだろうか。(なお、①の5点、②の4点の底部外面には、線刻「~」「N」「コ」「了」が見られる。)
 
次に、これらのまとまった数を示す①輪花埦・輪花皿類と②稜埦は、相模国府域内で消費するために保管されていたのか、それとも相模国府を経由して他地域へ供給されるものだったのか、という疑問がある。
もし、国府域内での消費用に保管していたのであれば、①・②の同器種の数が多量であることから、やはり広域流通用に一時的に保管していたと考えられる。(耳皿・瓶などの点数が少ないのは、特殊な器種のために需要が限られていたと思われる。)
さらに、これらの緑釉陶器が尾張国猿投窯で東国向けに一括生産されたものの一部であると仮定した場合、その生産の全体量はどの程度のものだったのだろうか。それはすなわち、林B遺跡の位置づけにも係わってくる問題のように思われる。  
 
また、林B遺跡の性格に係わる要素かどうかは分からないが、②のなかで唯一、陰刻花文を持つ稜埦が注目される。この花文稜埦の口縁部には蝶に似た花文が施されていることも特徴的であるが、見込の花文中央が二重花文となっている点でも際立っている。
そして、これと似た二重花文の稜埦の素地が、坂戸B遺跡(相模国庁跡の南西1.5㎞)から出土していることも、相模国府域の緑釉陶器を考えるうえで見逃せない点のように思う。
こうした二重花文の稜埦は斎宮跡などから出土することからも、緑釉陶器のなかでも高級品の一つと考えられる。その素地が相模国府周辺から出土する意味は何なのだろうか。坂戸B遺跡の素地は、いったいどこの窯跡から、何のために持ち出されたものなのだろう。(なお、素地という視点から見ると、①の花文輪花埦と似た素地が、猿投窯の鳴海地区〔NN278号窯跡〕や、黒笹地区〔K90号窯跡〕から出土している。)
 
現時点では、仮定上のとりとめない想定や疑問に終わるしかないが、今後、相模国内の他地域、そして東国から出土した緑釉陶器のデータが集成されれば、淳和院が係わったと仮定される尾張国猿投窯の緑釉陶器の流通の様相が明らかになるかもしれない。
つまり、林B遺跡から出土した①輪花埦・輪花皿類や②稜埦と生産を一にするよな緑釉陶器が、相模国府域以外で出土する地域があるのか。それはどのような性格を持つ遺跡なのか。そこから、林B遺跡の性格も少しずつ明らかにされてゆくのではないかと思う。