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私の第三十四夜をつづります。

なぜ「村」の「殿」たちに「酒」を給したのか?

 5日・6日と、居村木簡のシンポジウム(茅ケ崎市教育委員会)を聞いた。その企画・構成・内容のすべてにおいて、とても充実したシンポジウムだったと思う。
 素人の私が理解した限りでは、今回のシンポジウムでは、おもに4号木簡について、「貞観□年八月十□日」以下の内容から、2号木簡(放生木簡)と同じく、”放生”に係る酒食供給記録木簡か、との解釈が提示されたように思う。
 一方、4号木簡に記された「八月十□日」の日付や「酒」・「飯」・「雑菜」の内容、遺跡の立地などから、収穫祭祀(早稲の収穫か)としての解釈も提示された。
 さらに、4号木簡に9名以上が記されている「~殿」という単位から、作業組織単位としての可能性や、一歩進んで、郡司クラスの富豪層による酒・肴による労働力編成(魚酒労働)を示すものとの解釈も示された。
(シンポジウムの前、私は4号木簡について漠然と、大規模な開発・土木作業後に「酒」・「飯」・「雑菜」がふるまわれたものとしてイメージしていたが、そうした捉え方を”魚酒労働”として解釈できるのかどうか、現時点では知識がないために分からない。)
 あくまでも個人的な印象として、”4号木簡=放生関連?”の流れを感じたシンポジウムだったが、その後、自分が感じていたイメージに近い木簡はないのだろうか、と少し探してみた。そして、山形県米沢市の古志田東遺跡出土の三号木簡について初めて知った。
 この木簡では、何かしらの目的に動員された全体人数「二百五十八人」、一回の人数として「卅人」ということなどが分かるようだが、それらの人々を動員した目的や主体、動員の報酬内容などについては不明だ。
 現時点で、9世紀第3四半期にあたる貞観年間という時代(高座郡からは相模川を挟んで対岸の相模国府域や大住郡内で、人々の活動が最も盛んであったと思われる時代)に、高座郡の「村」の人員を組織する力をもった「殿」や、その参加者への対価として、大規模に酒食をふるまうことができる主体者は何かについて、もちろん私などには確かめようがない。
 また、田植え作業に伴うような“魚酒”の性格を、八月半ばという時期にあたる4号木簡の内容に当てはめることができるのかどうかも分からない。
 さらに、放生会の後、どのような形で飲食儀礼が行われるのか、その具体的なイメージを描くことができない。
(ただ、4号木簡が示す貞観年間は、大住郡・愛甲郡の荒廃田・開田などが、冷然院や淳和院にあてられた時期であること、相模国司(嵯峨源氏仁明源氏が連続任官)には遙任が多いと思われる時期であること、大住郡・高座郡大領の壬生氏が高い位階に昇った時期であることなどもふまえたうえで、当該期の国や郡の実質的支配・経営のあり方も解明されなければ、この木簡の性格も定まらないように感じている。)
 今後、研究者の方々によって、居村遺跡の木簡の意味がさらに解明されていくことを期待するばかりだ。