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私の第三十四夜をつづります。

石清水八幡宮(2)

 相模国府とその八幡宮について、またそれに関連する事柄について、今の私の理解をまとめると次の通りだ。
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 11世紀前葉(1036年~)の相模国司に源頼義11世紀中葉(1063年以降~)の相模国司に源義家         
          <『大磯町史1 資料編 古代・中世・近世(1)』第7章 相模の国司
 
 *11世紀中葉(1063年)、源頼義は鎌倉に八幡宮を勧請(由比郷)。12世紀末、源頼朝         
より遷座(小林郷)。          
                     <『吾妻鏡』治承4年(118010月小12日>

12世紀中葉(1158年)、“旧相模国府”に石清水八幡宮の“別宮”がある。
    <『石清水八幡宮文書』保元3年(1158123日“宮寺并極楽寺諸国庄園官符 官宣旨 宮寺領”>

12世紀中葉(1158年)、“上総国”にも石清水八幡宮の“市原別宮”がある。
    <『石清水八幡宮文書』保元3年(1158123日“宮寺并極楽寺諸国庄園官符 官宣旨 宮寺領”>

12世紀末(1192年)、平塚に“八幡宮”がある。
                      <吾妻鏡』建久3年(11928月小9日>
12世紀末(1192年)、平塚に“五大堂〔八幡。号大會御堂〕”があり、“八幡”の地名がある。                  

                     <吾妻鏡』建久3年(11928月小9日>

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 なお、茅ヶ崎市居村B遺跡から「放生」木簡・「貞観」木簡が出土している。これらの木簡をきっかけに生まれた疑問と想像を思いつくままに挙げると次の通りだ。
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*地方で“放生会”的な行事が行われる場合、それは全国一律の公的行事なのか?(その目的は何か、国・郡・郷はどう係るのか?)
【時代や、地方の条件によって異なるのでは?】

相模国高座郡)で“放生会”的な行事が行われる場合、その実態はどういうものか?(主催者はだれか、地方の寺社や人々はどう係るのか?)
【“放生会”であったなら、高座郡の有力な寺社が係ったのでは?】
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 今回、実際に石清水八幡宮を訪れて、全く根拠の無い想像だが、改めて次のようにイメージした。
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 *茅ヶ崎市居村B遺跡の1号木簡に記された「□郡十年料□放生布施□事」、4号木簡の「貞観□年八月十□日(後略)」が、仮に、地方での“放生会”的な行事の存在を示すものであった場合、それは中央主導のものではなく、地方主体の儀礼だったのではないか。
 *茅ヶ崎市居村B遺跡の1号4号木簡が、仮に、9世紀後半に行われた“放生会”的な行事に係るものであった場合、それは国衙とは別の開発主体によって、高座郡の協力体制のもとで行われたものではないか。
 *石清水八幡宮の“放生会”の開始が貞観年間(貞観5年あるいは18年?)であることから、仮に、高座郡内で“放生会”的な行事が行われた場合、石清水八幡宮のあり方にモデルを求めるのは難しいように思う。(といって、宇佐神宮で行われていた形がモデルになるのだろうか。)
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 以上、地方の“放生会”的な行事について、素人の疑問と独りよがりの感想をまとめてみた。ようやく石清水八幡宮を訪れてみても、この程度の感想にしかならなかった…。

イメージ 1
安居橋から見る放生川
川幅は予想していたものに近かった。茅ケ崎市の居村B遺跡の北を流れる千ノ川を思い出した。「放生」木簡ではなくても、平塚の国府域内の谷川(やがわ)にも、何かしらの木簡か眠っていてもよさそうなのに…とも思う。

イメージ 2
頓宮殿 
「頓宮」の意味が分からない。帰宅後、昭和58年から使っている『広辞苑』で調べると「頓宮 かりみや、行宮 」とあった。そんなことも知らないのだから…。

イメージ 3
祓谷にかかる神幸橋
谷水が暗く光っていた。何とも涼しい風が通るところだった。

イメージ 4
御鳳輦舎(ごほうれんしゃ) 
まず、「輦」が読めない。『広辞苑』を使い始めた時よりも古く、昭和46年から使っている『新字源』を調べると、「鳳輦 天子の乗る車」とあった。

イメージ 5
御本殿の楼門