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<『大磯町史1 資料編 古代・中世・近世(1)』第7章 相模の国司>
より遷座(小林郷)。
<『吾妻鏡』治承4年(1180)10月小12日>
*12世紀末(1192年)、平塚に“八幡宮”がある。
<『吾妻鏡』建久3年(1192)8月小9日>
*12世紀末(1192年)、平塚に“五大堂〔八幡。号大會御堂〕”があり、“八幡”の地名がある。
<『吾妻鏡』建久3年(1192)8月小9日>
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*地方で“放生会”的な行事が行われる場合、それは全国一律の公的行事なのか?(その目的は何か、国・郡・郷はどう係るのか?)
【時代や、地方の条件によって異なるのでは?】
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今回、実際に石清水八幡宮を訪れて、全く根拠の無い想像だが、改めて次のようにイメージした。
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*茅ヶ崎市居村B遺跡の1号木簡に記された「□郡十年料□放生布施□事」、4号木簡の「貞観□年八月十□日(後略)」が、仮に、地方での“放生会”的な行事の存在を示すものであった場合、それは中央主導のものではなく、地方主体の儀礼だったのではないか。
*石清水八幡宮の“放生会”の開始が貞観年間(貞観5年あるいは18年?)であることから、仮に、高座郡内で“放生会”的な行事が行われた場合、石清水八幡宮のあり方にモデルを求めるのは難しいように思う。(といって、宇佐神宮で行われていた形がモデルになるのだろうか。)
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安居橋から見る放生川
川幅は予想していたものに近かった。茅ケ崎市の居村B遺跡の北を流れる千ノ川を思い出した。「放生」木簡ではなくても、平塚の国府域内の谷川(やがわ)にも、何かしらの木簡か眠っていてもよさそうなのに…とも思う。
頓宮殿
「頓宮」の意味が分からない。帰宅後、昭和58年から使っている『広辞苑』で調べると「頓宮 かりみや、行宮 」とあった。そんなことも知らないのだから…。
祓谷にかかる神幸橋
谷水が暗く光っていた。何とも涼しい風が通るところだった。
御鳳輦舎(ごほうれんしゃ)
まず、「輦」が読めない。『広辞苑』を使い始めた時よりも古く、昭和46年から使っている『新字源』を調べると、「鳳輦 天子の乗る車」とあった。
御本殿の楼門