enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

石清水八幡宮(1)

 石清水八幡宮子どもの頃、授業で知った仁和寺の老僧の逸話は、長く記憶に残った。
相模国府の勉強を始めてから、その石清水八幡宮の名に再び出会った。相模国府とその世界』(平塚市博物館 1998年)の「Ⅰ相模国研究史」(荒井秀規)に、石清水八幡宮文書の保元3年(1158)の官宣旨「相模国 旧国府別宮」の記事について触れられていたのだ。相模国府が置かれていた地に石清水八幡宮領があったことを知った時点から相模国府遷移の時代にあたる12世紀のあり方にも関心を持つようになった。また、隣の茅ヶ崎市で発掘された「放生」木簡・「貞観」木簡から、石清水八幡宮放生会のあり方にも興味を持った。なお、歌人相模について調べる中で、かつて、次のようなことを妄想していた。
 
enonaiehon 20121021日「歌人相模の時代から中世へ-静範と聖範」から抜粋】
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1063 康平6年 3月 興福寺の静範ら、成務天皇の陵から宝物を盗む。
           513 山陵使を成務天皇陵に派遣する。
           1017 僧静範を伊豆に、その仲間16人を各地に配流する。
           1215 天皇陵を修理して宝物を返納する。
                〔扶桑略記・百練抄〕
           8月 伊予守源頼義相模国由比郷に石清水八幡宮を勧請、建立する。
                〔鶴岡八幡宮寺社務職次第・『吾妻鏡』治承四年十月十二日条〕
 1066 治暦2年 72 流人前下野守源頼資興福寺僧静範らの罪を赦す。
                〔扶桑略記・清獬眼抄〕
次に「静範」について簡単にまとめてみる。
藤原静範:
藤原兼房の子(兼房は藤原道隆の子)、静範の祖父道隆の妻に大弐三位がいる(大弐三位歌人相模とは、共に藤原定頼と交際関係にあったとされる)、静範の異母兄弟?藤原兼仲(10371085)は相模国司(1083年現任)
静範の父兼房が伊豆配流の静範を思って詠んだ歌(『後拾遺和歌抄』第十七雑三より)「静範法師八幡の宮のことにかかりて伊豆の国に流されて又のとしの五月に内の大弐三位の本につかはしける
996 さつきやみ 子恋の杜の ほとゝぎす 人知れずのみ 鳴きわたるかな
かへし 大弐三位
997 ほとゝぎす 子恋の杜に 鳴く声は 聞く夜ぞ人の 袖もぬれけり 」
【註】”子恋の杜”は伊豆山神社周辺の森。「古々比の森」「古々井の森」「子恋の森」。なお、”八幡の宮”は石清水八幡宮をさすようだが、静範法師の伊豆国配流とどう係るのか、現時点では不明。
これらの年代から、「静範」が伊豆国に配流されたのは、歌人相模と大江公資が任国の相模国を離れてから40年後であり、残念ながら、彼らが相模国伊豆国で出会うことはなかったようだ。
あきらめずに妄想の線をたどる。
「静範」は1066年に罪を赦されて興福寺に戻ったのか。それとも(同音のセイハン、すなわち”聖範”へと名を改めて?)伊豆国(子恋の森~伊豆山神社周辺?)にとどまった可能性はないだろうか。(ちなみに、兼房の子・宗円を下野国宇都宮氏の祖とする説があるようだ。同様に、静範が伊豆国で地盤を築こうとした可能性も想定できるかもしれない。)
そして、もし「静範」が伊豆国にとどまったのであれば、十数年後に相模国司となった(異母兄弟?)藤原兼仲と、何らかの形で係った可能性も生まれてくるのではないだろうか・・・と。
さらに妄想を広げる。
藤原兼仲(1083年現任)の後任である相模国司藤原棟綱(1086年現任)と、「静範」伊豆配流後の相模国源義家1063年以降任官か)とは、母方の祖父が平直方(「阿多見聖範」の父とされる。源頼義は娘婿にあたる)という関係になる。
また、源義家1081年、父頼義が勧請した相模国由比郷の元八幡(由比若宮)を修復している。2年後の1083年、義家は相模国府~鎌倉に集結した兵たちを加えて陸奥国へと向かったのではないだろうか…と。
阿多見聖範」、そして「静範」から生まれた妄想で、11世紀後半の相模国司や東伊豆~平塚~鎌倉の海岸線をつないでみた。
果たして「藤原静範」と「阿多見聖範」とが同一人物である可能性はあるのだろうか?(この場合、「阿多見聖範」は平直方の養子ということになるのだろうか。)
もう少しこの妄想を追いかけていこうと思う。
追記1:その後、平直方の没年(1053年)から考えれば、聖範(1063伊豆国配流)は直方の養子にはなりえない…と気がついた(遅すぎるが)。ただ、京から伊豆国に配流された貴族・僧侶たちは、当時、何らかの形で伊豆山神社と係ったのではないだろうか、という想定は消えないままだ。
追記2:藤原静範は1066年に罪を赦された後、「多武峰往生院千世君歌合」(1080年前後)に出詠している。彼が伊豆にとどまっていた可能性、阿多見聖範と同一人物である可能性は低いといえるだろう。
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つまり、この時点で、成務天皇陵の宝物を盗んだとされる静範法師は、石清水八幡宮とどのようなトラブル(?)があったのだろう…と感じた疑問が、いまだに引っかかったままなのだ。
【追記:その後、2016年6月11日付の「寄り道の覚書:静範と「八幡の宮のことにかヽりて」②」の記事のなかで、この疑問についての、自分なりの答えを書き留めた。自分でも予想外の答えになった。すなわち、静範が盗掘した山稜は、盗掘時点で成務天皇陵と認識されていたものではなく神功皇后陵…神功皇后(息長帯比賣命) 石清水八幡宮の御祭神…であったのではないか?、という解釈に行き着いたためだ。果たして、真相はどうなのだろう。】
 
さらに平塚の国府域中心地「四之宮」に隣接する「八幡」の地域、そして平塚に八幡宮を勧請した時期と位置に関心を抱いていた私は、石清水八幡宮をいつか訪れてみたいと願うようになった。今回、ようやくその石清水八幡宮を自分の眼と足で確かめることができた。現時点で、石清水八幡宮相模国府や茅ヶ崎の遺跡との係りについて、新たに分かったことはない。ただ自分の中に、新たな疑問も生まれたような気がする。それを確かめるために、旅の写真を整理しておこうと思う。
 
男山(143m)からの北東方向の眺め…21世紀の現在、3本の河川、4本の鉄道線、2本の高速道路、新・旧国道2本が一堂に会するような地域なのだと分かった。平安時代も交通の要衝だったのだろうと思われた。
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