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私の第三十四夜をつづります。

寄り道の覚書:静範と「八幡の宮のことにかヽりて」①

 これまで、歌人相模について、そして平安時代相模国府の様相について、自分なりに一歩でも近づきたいと思ってきた。しかし現実は、寄り道で道草を食うのが精一杯、と分かってきた。基本的に力不足なのだと思う。虚しくはあっても寄り道で道草を食うしかないのだろうな、と思い始めている。
 そして、今、道草しているのは、藤原兼房朝臣の歌の詞書にある「八幡の宮のことにかヽりて」をどう解釈すればよいのか?というものだ。
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『後拾遺和歌集』(新 日本古典文学大系 岩波書店 1994年)から 
 巻第十七 雑三
 静範法師 八幡の宮のことにかヽりて伊豆の国に流されて、又の年の五月に、内の大弐三位の本につかはしける                   藤原兼房朝臣

 996 さつきやみ 子恋の杜の ほとヽぎす 人知れずのみ 鳴きわたるかな
 
 返し                          大弐三位

 997 ほとヽぎす 子恋の杜に 鳴く声は 聞く夜ぞ人の 袖もぬれけり
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 私のなかでは「11世紀の歌人相模→走湯権現参詣→静範の伊豆配流→静範の父・藤原兼房→“八幡の宮のことにかかりて”の詞書」という道筋で踏み迷って生まれた疑問だ。
 歌人相模の歌(『相模集』78)に詠み込まれた「石田」の地名への疑問がそうだったように、「八幡の宮のことにかヽりて」についての疑問がずっと宙ぶらりんのままだった。
 今回、『後拾遺和歌集』を眺めていて、再び藤原兼房の996の歌を見かけた。そして、「八幡の宮のことにかヽりて」がどういう意味なのか、自分なりの答えを探しておこうと思った。
 つまり、
成務天皇陵の宝物を盗んだ(1063年3月)罪によって、伊豆配流(1063年10月)となった静範…その後、罪を赦される(1066年7月)…の父・藤原兼房が詠んだ歌(『後拾遺和歌集』996の歌)の詞書で、なぜ「八幡の宮」の語が出てくるのか? 
*静範の配流の背景を説明する場合、成務天皇陵を示す「狭城盾列陵」、あるいは「池後山陵」と直接的に記すのを避けたのであれば、「八幡の宮」は成務天皇陵を示唆する語であったのだろうか? 
という、宙ぶらりんの疑問について道草をしようと思ったのだ。