(ただし、996の歌の詞書が記された時点…1063年以降~1086年頃まで?…において、という限定のもとでの理解・解釈となる)。
*詞書の「八幡の宮」とは、石清水八幡宮と考えられること。
(神功皇后陵については、現在「佐紀盾列古墳群」と呼ばれるなかで、北側に位置する“五社神古墳”〔狹城楯列池上陵〕なのか、その南に近接する“佐紀石塚山古墳”〔狹城盾列池後陵〕なのか、あるいは他の古墳なのか、伝承による混同の歴史や、混同を訂正する歴史があったこと。)
*詞書が記された時点での「八幡の宮のことにかヽりて」と は、「“神功皇后陵”のことにかヽりて」を婉曲的に言い替えたものと考えられること。
すなわち、
その一方で、
*1063年に静範が盗掘した山陵については、『続日本後紀』の「盾列北南二山稜」に関する混同・訂正についての記事(巻十三 承和十年四月二十一日)や、『扶桑略記』(11世紀末以降の成立)の「池後山陵掠奪寶物」についての記事(巻二十九 康平六年五月十三日)、『百練抄』(13世紀末頃の成立か)の記述などをもとに、成務天皇陵(南側の“佐紀石塚山古墳”〔狹城盾列池後陵〕)であると解釈されていること。
*1063年に静範が盗掘した山陵(詞書が記された時点で“神功皇后陵”と考えられていたもの)が、実際には、現在の“五社神古墳”(狹城楯列池上陵。神功皇后陵に治定)なのか、“佐紀石塚山古墳”(狹城盾列池後陵。成務天皇陵に治定)なのかを判断し得る材料を、今回見つけることができなかったこと。
以上が、今回、私がたどりついた「八幡の宮のことにかヽりて」の理解・解釈のあらましだ。
改めて、現時点での私の解釈を要約すると、
『後拾遺和歌集』996歌の詞書の「八幡の宮のことにかヽりて」にこだわる限り、静範が盗掘した山稜とは、石清水八幡宮に係わる御山稜と解釈するのが自然であり、それに該当する御山稜は、当時「神功皇后陵」と考えられていた(民間で伝承されていた?)山稜であったと推察できる。もし逆に、静範が、当時「成務天皇陵」と考えられていた山稜を盗掘したのであったならば、石清水八幡宮との係わりが見つからない「成務天皇陵」について、『後拾遺集和歌集』996歌の詞書で「八幡の宮のことにかヽりて」とは記すことはなかったのではないか、
ということになる。
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~静範についての覚書~
5・13 山陵使を成務天皇陵に派遣する。
10・17 僧静範を伊豆に、その仲間16人を各地に配流する。
12・15 天皇陵を修理して宝物を返納する。
〔扶桑略記・百練抄〕
〔扶桑略記・清獬眼抄〕
:異母兄弟の藤原兼仲は相模国司(1083年現任)
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