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私の第三十四夜をつづります。

寄り道の覚書:静範と「八幡の宮のことにかヽりて」②

 藤原兼房の歌(『後拾遺和歌集』 996)の詞書に記された「八幡の宮のことにかヽりて」の意味について、今回自分なりに理解したこと・解釈したことは以下の通りとなる。
(ただし、996の歌の詞書が記された時点…1063年以降~1086年頃まで?…において、という限定のもとでの理解・解釈となる)。

*詞書の「八幡の宮」とは、石清水八幡宮と考えられること。

石清水八幡宮の御祭神である神功皇后(息長帯比賣命)の御山稜は「盾列山稜」とされ、その「盾列山稜」は北・南と二つ存在し、その「盾列北南二山稜」は承和10(843)年時点で、すでに混同されていたこと。
神功皇后陵については、現在「佐紀盾列古墳群」と呼ばれるなかで、北側に位置する“五社神古墳”〔狹城楯列池上陵〕なのか、その南に近接する“佐紀石塚山古墳”〔狹城盾列池後陵〕なのか、あるいは他の古墳なのか、伝承による混同の歴史や、混同を訂正する歴史があったこと。)
 
 その混同・訂正の歴史や、現在の治定(五社神古墳=神功皇后陵、佐紀石塚山古墳=成務天皇陵)とは別に、石清水八幡宮神功皇后陵との歴史的な係わり方に着目すると、
*詞書が記された時点での「八幡の宮のことにかヽりて」と は、「“神功皇后陵”のことにかヽりて」を婉曲的に言い替えたものと考えられること。
 
 すなわち、
*1063年に静範が盗掘した山陵は、詞書(『後拾遺和歌集』996歌)が記された時点(1063年以降~1086年頃まで?)で“神功皇后陵”と考えられていた山稜ではなかったか、と想定できること。
 
 その一方で、
*1063年に静範が盗掘した山陵については、『続日本後紀』の「盾列北南二山稜」に関する混同・訂正についての記事(巻十三 承和十年四月二十一日)や、『扶桑略記』(11世紀末以降の成立)の「池後山陵掠奪寶物」についての記事(巻二十九 康平六年五月十三日)、『百練抄』(13世紀末頃の成立か)の記述などをもとに、成務天皇陵(南側の“佐紀石塚山古墳”〔狹城盾列池後陵〕)であると解釈されていること。
 
 ただし、『続日本後紀』や『扶桑略記』などの記述や、現在の神功皇后陵・成務天皇陵の治定とは別に、
*1063年に静範が盗掘した山陵(詞書が記された時点で“神功皇后陵”と考えられていたもの)が、実際には、現在の“五社神古墳”(狹城楯列池上陵。神功皇后陵に治定)なのか、“佐紀石塚山古墳”(狹城盾列池後陵。成務天皇陵に治定)なのかを判断し得る材料を、今回見つけることができなかったこと。

 以上が、今回、私がたどりついた「八幡の宮のことにかヽりて」の理解・解釈のあらましだ。
 改めて、現時点での私の解釈を要約すると、
 『後拾遺和歌集』996歌の詞書の「八幡の宮のことにかヽりて」にこだわる限り、静範が盗掘した山稜とは、石清水八幡宮に係わる御山稜と解釈するのが自然であり、それに該当する御山稜は、当時「神功皇后陵」と考えられていた(民間で伝承されていた?)山稜であったと推察できる。もし逆に、静範が、当時「成務天皇陵」と考えられていた山稜を盗掘したのであったならば、石清水八幡宮との係わりが見つからない「成務天皇陵」について、『後拾遺集和歌集』996歌の詞書で「八幡の宮のことにかヽりて」とは記すことはなかったのではないか、
ということになる。
 それにしても、静範という興福寺僧は、なぜ、神功皇后陵(『後拾遺和歌集』996歌の詞書記録者による「盾列北南二山稜」の区別と認識では「神功皇后陵」だった、との想定)をあばき、宝物を盗むような事件を起こしたのだろうか。「八幡の宮のことにかヽりて」の意味より、ずっと興味深い謎だ。

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~静範についての覚書~
【註:かつて、『新 国史大年表』などを参考にして書き留めた記事「歌人相模の時代から中世へ-静範と聖範」(2012年10月21日)から、静範について簡単にまとめ直したもの】

◆康平6(1063)年3月 興福寺の静範ら、成務天皇の陵から宝物を盗む。
            5・13  山陵使を成務天皇陵に派遣する。
           10・17  僧静範を伊豆に、その仲間16人を各地に配流する。
           12・15  天皇陵を修理して宝物を返納する。
                〔扶桑略記・百練抄〕      
◆治暦2(1066)年     7・2   流人前下野守源頼資興福寺僧静範らの罪を赦す。
                扶桑略記・清獬眼抄〕

◇静範:父の藤原兼房(1001~1069)の妻に江侍従(赤染衛門女)がいる
   :祖父の道隆の妻に大弐三位紫式部女)がいる
   :異母兄弟の藤原兼仲は相模国司(1083年現任)
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