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私の第三十四夜をつづります。

メモ:多賀城市の八幡神社について

 

連日の暑さで、いつもの妄想がますます泥沼化している。

そんななかで、多賀城市八幡神社の由緒を知った。平塚八幡宮の勧請について参考例になるかもしれない。要点をメモしておく。

 

多賀城市八幡神社について】
(参考:「多賀城市文化財」、『多賀城市文化財調査報告書第 140 集 八幡沖遺跡』など)

*現在位置:多賀城市宮内地区多賀城跡の南東約3.6㎞、「八幡沖遺跡」内)
*勧請伝承:延暦年中(782~806)、坂上田村麻呂が勧請か
*当初位置:歌枕「末の松山」西方の台地上多賀城市八幡地区)に鎮座
      (なお、八幡地区「八幡館跡」からは中世後半頃の空堀・土橋が発見されている)

*別  称:
  ●「末松山 八幡宮」…当初位置による呼称
  ●「鞢(ゆがけ)八幡」…天喜・康平年間(1053~1065)源義家が鞢(弽、弓懸)を奉納したことによる 
  ●「沖八幡」…八幡の地が「興井郷(おきのいのさと)」と呼ばれたことによる

*移転契機:
建保年中(1213~18)、平右馬助(景家、八幡介)が居館を古舘に定めたことにより、現在の宮内地区に移転(2011年の津波で被災し、その後復興)

*八幡沖遺跡(宮内地区、現・八幡神社周辺)
  ● 掘立柱建物跡(10c中葉~後葉、桁行 3 間・梁行 2 間、身舎四面庇)
  ●土器の多量出土(10c後葉~ 12c前半頃)
       ● 土器廃棄土壙(11c代)
  ●区画溝(15c初め~17c末頃

 

≪map:宮城県多賀城市八幡神社の周辺≫

 

かつて多賀城跡を2回ほど訪ねた。
その際は、8~9~10c代の国府への関心ばかりが先立ち、11~12cという時代、ましてや八幡神社の存在について思い及ぶことはなかった。

今回、たまたま、多賀城駅の南の八幡地区・宮内地区のようすを少しだけ知ることができた。
多賀城市にも”八幡”という地名が存在し、その地名にまつわる伝承や記録をもとに、八幡神社が移転した契機や時期をたどれることをうらやましく感じた。)

そして田尾誠敏氏の論考「相模国の郡家と国府をめぐる諸問題」(『考古論叢 神奈河 第25集』2018年 神奈川県考古学会)を改めて読み直すことになった。
その論考のなかで田尾氏は、(私がこだわり続ける高林寺遺跡第7・第9地点の区画溝について)「…石清水八幡宮相模国国府預所は1264年の記事に登場するので、栗山氏が示した13世紀という区画溝の年代と一致する。これを区画溝に囲まれた居館の性格を示す仮説として挙げておきたい。さらに類推を重ねると、古国府(旧国府は1158年の宣旨に遡るので、相模国府が余綾郡に移遷した後に石清水八幡宮の荘園がこの地に置かれ、国府中枢のあった場所に預所が設置されたとは考えられまいか。このように国府中枢が置かれていた場所では、国府移遷後も度重なる造成や改築が行われ、継続して利用されていたことは想像に難くない。…」と言及されている。

私は高林寺遺跡第7・第9地点の区画溝の様相から、そこに9世紀代の政庁建物が存在したのでは?という想定を捨てきれない(”中世の区画溝”が13cに出現するまで、この国府中枢地域が官衙として有効利用されないままであったとは思えない)ため、田尾氏の論考に強く惹きつけられる。

そして、”古国府別宮”と高林寺遺跡第7・第9地点とが係わるのかどうかについても、いつの日か、手掛かりが見つかることを期待している。
ちなみに、兵庫県姫路市継の登リ田遺跡古墳時代~中世の集落遺跡)では、平安時代後期の井戸跡(11c後半~12c前半)から”楠葉型の瓦器埦”が出土し、「その型から、石清水八幡宮京都府とその荘園であった当地との関係を立証」できる、とされているようだ。
もし、平塚市相模国府関連遺跡群から、登リ田遺跡の出土資料のような黒っぽい瓦質土器が発見されたらどうしよう…などと、泥沼状の脳味噌は妄想が止まらない。