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私の第三十四夜をつづります。

「沼浜」の風

 

8日午前は「大倉幕府周辺遺跡群」の現地説明会に参加し、午後は鎌倉から2駅先の東逗子駅で降り、沼間の地に向かった。

『吾妻鑑』の時代、沼間の地は「沼浜」と呼ばれたようだ。

今回、その「沼浜」に引き寄せられたのは、最近、平塚の12世紀の八幡宮について妄想するなかで、源義朝のことを思い出したからだった。
(かつて仲間たちと”相模国の古代東海道”を歩いていた頃、走水~鎌倉間の推定ルートを地図で確かめつつ、それとは別に、田越川沿いに相模湾東京湾を最短で結ぶルートもありそうに感じた。今回、その田越川沿いに歩くと、義朝ゆかりの「沼浜」に行き着くことを知った。)

それにしても、義朝はなぜ「沼浜」に屋敷を構えたのだろう? 
当時の「沼浜」には何か特別な利便性があったのだろうか? 
(初めて東逗子駅で降り、神武寺をめざして田越川をさかのぼるように歩きながら、そんなことを思った。)

 

『日本歴史地名大系14 神奈川県の地名』平凡社 1993年)は、「沼間村」について次のように記している。

「…風土記稿」は「和名抄」の鎌倉郡沼浜郷がのちに沼間村となり、三浦郡に含まれたという。「吾妻鏡建仁二年(一〇二二)二月二九日条に故源義朝の「沼浜御旧宅」があったとある。…」

「…年代は不明だが、桜山から田浦村船越新田(現横須賀市まで、通船のため田越川を掘り通す計画があり、沼間村では川沿いに家田畑があるため「家数五十五軒入院四ヶ寺」が生活できなくなるので、中止してほしいと申し入れている(「沼間村反対願書」)(中略)神武寺の沼間参道登り口の東側山腹にある日蓮宗法勝寺は、もと天台宗(中略)神武寺山の谷には七諏訪社の祠がある。また義朝邸の所在地を法勝寺境内、あるいは参道西尾根麓の堀の内とする説がある。…」

さらに帰宅後、「…神武寺の南麓にはかつて海が入り込んでいたと思われ、その名残りが現在の田越川です。…」(「逗子の歴史めぐり~地元の歴史を掘り起こそう~ いざ、神武寺から沼間へ!」(逗子市観光協会))ということも知った。

改めて明治前期の地形図を眺め、逗子湾から内陸へ、眉を引いたような田越川沿いの低地に海が入り込むようすを思い浮かべてみる。

「沼浜」に利便性あるとすれば、やはりこの”入海”のような地形なのだろうか。

私の唯一の実感と言えば、神武寺の麓の法勝寺で強く意識した”海風”だった。
平塚の海辺近くで育った私は、沼間に吹く風にも”海風”の感触を感じ取った。
(ただし、逗子市の遺跡分布地図を詳しく見れば、義朝の時代に”入海”だったはずの低地に、平安時代や中世の遺跡が存在するのかもしれないが…)

8日の沼間の地は蒸し暑く、”海風”に息を吹き返した私には、義朝の一行が鎌倉の海から”海風”に押されながら、かつての田越川の”入海”を「沼浜」の居宅まで小舟でさかのぼるイメージが浮かんだ。

法勝寺から沼間参道で神武寺に向かい、帰り道は本来の表参道を、と思いながら、小暗い道に踏み込む勇気がなくて、同じ道を下ることになった。

 

東逗子駅から神武寺へ】

田越川と「馬場橋」:
道沿いの民家の庭先に井戸が据えられていて、今も使われているような印象だった。

 

法勝寺下の路傍の案内板:
田越川はこの地図では「矢の根川」となっていた。

 

法勝寺:
お寺の西の坂道が神武寺への沼間参道となっていた。
ひっそりとした参道ではヤマユリが出迎えてくれた。

 

神武寺
薬師堂のたたずまいに感激する。
お参りしたあと、立派な仁王門をくぐりながら屋根を見上げると、鮮やかな天井画が目に飛び込んできた(四神図か、と気づいて振り向きさえすれば、残りの玄武と青龍の姿を拝むことができたなずなのに…何とも中途半端な脳味噌になってしまって残念…)

 

光照寺
鎌倉時代後期の作とされる木造阿弥陀如来立像が残るのか…拝することができればなぁ…。

 

今回、国土地理院の地形図に、立ち寄った主なポイントを示す参考図をつくることにした。スケールまで入って、何だかとても嬉しい(地図が読めない私だけれど)

≪map:「沼浜」(逗子市沼間)の地≫

(^^♪

「義朝も 海風浴びしや 沼浜に」