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私の第三十四夜をつづります。

いざ「大倉幕府」

 

8日、朝から鎌倉に向かった。
まだ観光客の少ない小町通りを抜け、鶴岡八幡宮をめざす。

曇り空でも蒸し暑く、八幡宮の広々とした空間に出てホッとする。
蓮の花で埋めつくされた源平池や、境内に並んだ骨董市に寄り道しながら、現地説明会が行われる横浜国大付属鎌倉小・中学校地点(大倉幕府周辺遺跡群)にたどり着く。

現場にはすでに人々が集まっていた。
受付で資料をいただき、さっそく、堀跡のように深く長く掘り込まれた遺跡を覗き込む。
まず目についたのは、南北に連なる大小の「柱穴列」だった。
入り混じったそれらの柱穴の多くは地下水をたたえている。
(資料には「発掘調査を行っている部分には、明治時代に地下水路となった西御門川が流れており、学校ができる前は筋替橋からまっすぐ北に向かう道路が川に沿ってあったといい」と書かれていた。帰宅後、明治時代前期の地形図(1880~1886年 柏書房)で確認すると、確かに、北奥の八雲神社・来迎寺のさらに先まで、道路がしっかりと直線的に伸びているのが見て取れた。)

そして、「整地層と溝」については、資料を参考にして何とか読み取ることができた(なぜか、平塚市の高林寺遺跡第7・9・12地点の区画溝のことを思い出したりした)

資料を読むと、私たちが覗き込んでいるのは遺構の6面らしい。

じきに、今回の5区の発掘成果について、調査担当者の方、続いて市教委の方の説明が始まった。
やはり興味が湧くのは、根石・礎板を持つ大型柱穴(配布資料の図面では5基は確かめられるので、建替えがあったか?)と道路状の整地層だ。
そして、何よりも、大倉幕府の立地・設計…西に鶴岡八幡宮、北に源頼朝墓所を抱える山、東に二階堂川、南に滑川と海…に納得する。

現地説明会からの帰り道、源頼朝が描いた都市デザインが今も観光地・鎌倉の景観遺産として生き残っていること、また地下に眠る遺跡が、源氏三代の儚い夢のよすがを語っていることに、歴史の不思議なエネルギーを感じた。

 

【5区(標高11.6m前後)の発掘成果の概略】(当日の配布資料及び説明から)

◎「源氏三代にわたって政治が行われた大倉幕府(大倉御所)の西はずれとする説が有力

◇4面(標高11m前後)
*遺構:整地層(北東-南西方向、道路か?)、その東の溝(深さ30cm、側溝か?)
*遺物:かわらけ、中国産青磁白磁常滑焼、貝殻
*遺物の時期:室町時代

◇5面(標高10.5~10.8m前後、南に向って低くなる)
*遺構:4面と同位置に整地層・溝(道路と側溝か?)
*遺物:かわらけ、中国産青磁白磁常滑焼、瀬戸美濃焼、貝殻、魚類の骨
*遺物の時期:鎌倉時代の終わり頃~室町時代のはじめ頃

◇6面(標高10.2~10.5m前後)
*遺構:4・5面と同位置に整地層・溝(道路と側溝か?)
   〔溝を掘り上げたところに柱穴列〕
   :柱穴列2列(直径30~50cm、狭い間隔、柵・塀か?)
   〔最初に整地層・柱穴列⇒その後、柱穴列を埋めて溝、2列の柱穴は新旧2時期にわたるか?〕
   :大型柱穴(直径80~120㎝、160~200㎝間隔、門か?)
    〔5基の大型柱穴列(門であれば薬医門か?)〕 
    〔遺跡南の「筋替橋」から110m北の現場は、南北2町(220m)の中間地点に位置する〕
   

*遺物:かわらけ、青磁白磁常滑焼、瀬戸美濃焼、石鍋、輸入銭貨
    根石・礎板(大型柱穴)
*遺物の時期:
 ・大型柱穴/ 鎌倉時代のはじめ頃を含む
 ・柱穴列/ 鎌倉時代前半頃
 ・溝/ 鎌倉時代中~後半頃

 

遺構(写真左:南から 中央:北から 右:東から)


遺物①(かわらけ)

 

遺物②(陶磁器・瓦・かわらけなど)

 

遺物③(礎板)

 

遺物④(根石)



≪map:大倉幕府西端を示す遺構≫