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私の第三十四夜をつづります。

高座郡庁の西側建物と溝状遺構

 13日、茅ヶ崎市遺跡調査発表会に出かけた。下寺尾官衙遺跡群調査速報として「下寺尾西方遺跡第1次調査」の成果も聴くことができた。8月の現地見学会を見逃していた私にとって、高座郡庁の西側建物のあり方(西脇殿となる掘立柱建物や、郡庁西側を区画・囲繞するような柵列などが検出されるのでは、と予想された)を知るうえで、今度こそ聞き逃せない発表会だった。

 私が1997年から考古学のいろはを学んだ先生は、高座郡衙についても独自の見解を持たれていた。その先生のもとで、高座郡衙について、調査報告書を読んで最後に勉強したのは6~7年前だったろうか。当時、先生が疑問を呈されていたのは、私が覚えている限り、おおよそ次のようなことだったと思う。
高座郡衙の正倉群が竪穴建物によって切られた時期が、そのまま郡庁廃絶の時期とはならないのではないか。
*郡庁建物と同時期とされる竪穴建物(“館”の竈屋との想定)と、郡庁建物との位置関係がごく至近距離であることから、郡庁建物と“館”(竈屋を含む)の存立時期には、時期差があるのではないか。

 13日の発表会で、速報としての特別報告を聴きながら、私の中に刷り込まれた先生の疑問が、改めて大きくなった。ことに、重要な遺構(1区の溝状遺構)の年代について「8世紀中頃か」とのコメントがあった時、頭の中で「8世紀中頃」の言葉が駆け巡った気がした。いつも慎重な発表をされる方の言葉として、意外なコメントのようにも思われた。
 帰宅してからも、2003年の報告書では「8世紀第2四半期初頭に廃絶」とされていた郡庁の存続期間についての疑問が、頭を離れなかった。 
 素人の私が、こうした疑問についてあれこれ思い巡らす時には、何よりも具体的に眼に見える形にするのが一番…と思い立った。数年前に使っていた高座郡庁の遺構配置図をもとに、西側の新たな調査成果を追加することにした。最新の確認調査によって、高座郡衙・高座郡庁の遺構群が新たな様相を見せてくれたような気がして、今後がますます楽しみになる。それにしても、高座郡庁の建物配置は左右対称にはならないのだろうか…と、改めて考古学のむずかしさ、面白さを感じた一日だった。

高座郡庁西側の遺構(展示会で示されていた1区・2区の配置図):
この1図では、南北・東西の2本の溝状遺構について、掘立柱建物や柱穴列のようには塗り分けられていなかった。ただ、それらと同じく重要な遺構であることは確かだと思う。今後、各遺構の年代が確定することで、高座郡衙・高座郡庁の変遷の研究が新たな方向に進むと嬉しい。イメージ 1


14日に覚書として作った“高座郡庁周辺の遺構配置図”:
二つの遺構配置図を合成した段階から、座標が正しくない可能性があるので、あくまで素人の想像図でしかない。また、水色の線は、独断で延長ラインを想定したもの。そもそも、二図の合成が適正でなければ、意味をなさない想定ラインだ。
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