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私の第三十四夜をつづります。

西方遺跡(下寺尾官衙遺跡群)の平安時代の溝

 26日、空は明るく、予定がなければ高麗山に向かいたかった。
 しかし予定通り、茅ヶ崎市の遺跡調査発表会の会場に向かう。例年と異なり、発表会は新庁舎で行われた。初めて入る新庁舎はお役所らしくなく、アットホームな明るい空間だった(隣町には、こんなに居心地の良さそうな立派な庁舎が完成していたのか…)。
 
 今日の発表のなかで「特別報告」はぜひ聴いておきたいものだった。今夏行われた郡庁北東部の調査(西方遺跡第4次調査)の成果に期待しつつ、発表要旨に目を通す。
 やはり、大きな成果が出ていたのだった。しっかりした南北棟の掘立柱建物2棟のほかに、その東に近接して、大型の南北溝(1号溝)が走っていることが、ことに目を引いた。
 なぜなら、その1号溝の年代は掘立柱建物の年代(概ね7c末~8c前半)と異なり、「9世紀後半から10世紀に入る」と推定されていたからだった。いよいよ、高座郡衙の廃絶時期を考えるうえで、平安時代が俎上にのるきっかけになるのではないか…そんなふうに感じた。
 これまで、高座郡衙の存続期間については、”8c第1四半期後半~第2四半期初頭”と報告されていて、その後の移転先はどこなのか?という点に関心が向いているように見えていた。
 しかし、そのおよそ15~20年間という短い存続期間が示されたことに疑問を投げかけたのが、明石新氏の論考「相模国高座郡衙(西方A遺跡)の諸問題について」(『地域と学史の考古学』 2009年 六一書房)だった。
 その論考の中で明石氏は、さまざまな視点から検証を試みつつ、最終的に〔高座郡衙の年代〕として「高座郡衙は評段階に造営が始まって8世紀初頭には完成し、第2四半期のH1号鍛冶炉は郡衙存続に伴うもの」として、「遺構外から9世紀の遺物が出土していること」などから「高座郡衙は9世紀まで存続したと積極的に解釈をしたい」とされている。
 これまで、こうした明石氏の論考を除いては、高座郡衙域の平安時代の遺物・遺構について注目されることはほとんどなかった。
 今回、新たに9c後半~10c代と推定される大型の溝が検出されたことで、その分析・考察を通じて、郡衙のあり方に新たな光があてられるかもしれないのだった。
(この新たな1号溝の性格について、私の”希望(?)”する想定は、”平安時代にも存続していた郡衙機能を有する施設の西側の区画溝”というものだ。その場合、対応する東側の区画溝が対称的な位置に出ていないことが新たな疑問となる。悩ましく楽しい疑問だ。)
 
 遺跡は新たな検証によって何度もよみがえることができる…高座郡衙という遺跡はまだまだ終わっていない…思いがけなく励まされた発表会となった。
 
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11月26日の空
 
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新庁舎近くの塀に延々と並ぶ絵:茅ヶ崎市は、こんな”えぼし麻呂”と”ミーナ”が似合う町を目指しているんだろうな、と思った。
 
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11月26日の月:心苦しかったけれど、喘息気味で最後まで発表会を聞き終えずに外に出る。見上げた空には、強い南西の風に洗われるような月。