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私の第三十四夜をつづります。

台地上の掘立柱建物(西方遺跡第3次調査)

 12日、茅ヶ崎市下寺尾の現地説明会に参加した。
 あたたかな陽射しの中、香川駅から現地まで歩く。道沿いには、新たにコンビニ店やドラッグストアが開店している。
 約20年前、初めてその道をたどった時は、荒涼とした風景が印象に残った。大規模な開発の前段階だったのだと思う。駒寄川までの道のりには、荒れた土地が無秩序に広がるばかりだったように記憶している。
 そして、その後、こうした新興住宅地が展開することを予想もしなかった。景観とは押し流されてしまうものなのだと、いつも後になって思い知る。

 下寺尾官衙遺跡群が広がる地域は、私にとって大切な現場だ。奈良・平安時代の考古学を学ぶ楽しみを、今も持ち続けさせてくれる現場なのだ。
 今回も、高座郡庁正殿跡の北西約100mの地点…すなわち、高座郡衙が展開する台地上の北西寄りの地点…で、新たな遺構が発見されていた。
 主な遺構は、大きな柱穴を持ち、わずかに西に振れる掘立柱建物と、その南西側に近接して検出された、大きく東に振れる掘立柱建物だった。
 二つの遺構を見て最初に感じたのは、柱穴の大きさ・形の違いと、、建物の軸方向の違いだ。
 資料を読み、調査現場内に降り立って、説明を聞きながら柱穴や遺物を身近に見学させていただく。
 分かったことは、前者は建物の軸方向・規模などから、高座郡衙遺構との関連が想定されていること。また、7世紀後半の竪穴建物を切っていることから、その時期を7世紀末~8世紀初め…高座郡衙と同じ年代観…と想定されていること。
 そして後者については、2間×3間の総柱建物を想定できること。

 一方で、展示されていた遺物には、やはり期待するような9世紀代の盛んな活動を示す土器は見当たらなかった。台地直下の下寺尾寺院跡や、台地を取り巻く小出川・駒寄川周辺地域とは様相が異なるのは、今回の調査でも明らかだ。
 ただ、その事実が、そのまま、台地上の官衙遺跡が7世紀末~8世紀初めで突然に終息したこと…高座郡庁はその後、別の場所に移転したと想定すること…と関連するのかどうか、まだすんなりと納得できていない。
 その理由は、報告書などの見解とは別の視点から、台地上の郡庁機能は9世紀代前半頃までは存続したのではないか、との見方が提起されていることによる。そして、その問題提起はいまだ見過ごされたままであり、問題点は残され続けているように感じるからだ。
 素人の私は学問的な観点を持ち得ないけれど、ごく個人的な思いから、その問題提起が持つ可能性…台地上の高座郡庁と台地下の下寺尾寺院とが、9世紀代にも並立し続ける景観イメージ…を捨てきれないでいる。

イメージ 1
官衙に関係すると考えられる掘立柱建物(建物の南西角に相当する柱穴1~4。南から撮影):
北側奥の柱穴4は、高校跡の基礎壁の向こう側に続いている。
桁行3間以上、梁行2間以上の南北建物となるのかどうか? 
西にわずかに振れる軸方向は、高座郡庁建物より、正倉建物の軸に近いように思えた。

イメージ 2
柱穴2(半切した西半部):
半切のためだろうか、高座郡庁正殿や相模国庁東脇殿の身舎の柱穴よりは小さい印象だった。
帰宅後、配布資料の平面図で、柱穴1~4の大きさ・柱間寸法を大まかに測ってみると、大規模なものと分かった(柱穴3の長径は2m近い。柱間は約2.7mか。)

イメージ 3
東に大きく振れる建物(黄色のテープで示されている。西から撮影):
掘り方は円形に近く、梁行の柱間は北より南が広いようだ。総柱の倉庫というよりは、床束を持つ屋(?)という印象だった。
同じように東に大きく振れる建物としては、台地下の調査(『小出川河川改修事業関連遺跡群 Ⅲ』 2010年 ㈶かながわ考古学財団)で、H10号掘立柱建物(4間×3間)・H11号掘立柱建物(3間×3間)が検出されている。それらの軸方向は、小出川の流路に並行する形で、東に振れているようにも思える。
素人考えでは、台地西北端上に建つこの総柱建物も、真北に近い軸方向の官衙関連建物群に先行する形で、眼下の小出川の流路に沿って軸方向を傾けているように思える。

イメージ 4
発掘調査現場の北側(台地の北縁)から富士山~大山の山並みを望む:台地下には小出川が南西方向に流れる。