12日、茅ヶ崎市下寺尾の現地説明会に参加した。
あたたかな陽射しの中、香川駅から現地まで歩く。道沿いには、新たにコンビニ店やドラッグストアが開店している。
約20年前、初めてその道をたどった時は、荒涼とした風景が印象に残った。大規模な開発の前段階だったのだと思う。駒寄川までの道のりには、荒れた土地が無秩序に広がるばかりだったように記憶している。
そして、その後、こうした新興住宅地が展開することを予想もしなかった。景観とは押し流されてしまうものなのだと、いつも後になって思い知る。
二つの遺構を見て最初に感じたのは、柱穴の大きさ・形の違いと、、建物の軸方向の違いだ。
資料を読み、調査現場内に降り立って、説明を聞きながら柱穴や遺物を身近に見学させていただく。
分かったことは、前者は建物の軸方向・規模などから、高座郡衙遺構との関連が想定されていること。また、7世紀後半の竪穴建物を切っていることから、その時期を7世紀末~8世紀初め…高座郡衙と同じ年代観…と想定されていること。
そして後者については、2間×3間の総柱建物を想定できること。
一方で、展示されていた遺物には、やはり期待するような9世紀代の盛んな活動を示す土器は見当たらなかった。台地直下の下寺尾寺院跡や、台地を取り巻く小出川・駒寄川周辺地域とは様相が異なるのは、今回の調査でも明らかだ。
その理由は、報告書などの見解とは別の視点から、台地上の郡庁機能は9世紀代前半頃までは存続したのではないか、との見方が提起されていることによる。そして、その問題提起はいまだ見過ごされたままであり、問題点は残され続けているように感じるからだ。
素人の私は学問的な観点を持ち得ないけれど、ごく個人的な思いから、その問題提起が持つ可能性…台地上の高座郡庁と台地下の下寺尾寺院とが、9世紀代にも並立し続ける景観イメージ…を捨てきれないでいる。
北側奥の柱穴4は、高校跡の基礎壁の向こう側に続いている。
桁行3間以上、梁行2間以上の南北建物となるのかどうか?
西にわずかに振れる軸方向は、高座郡庁建物より、正倉建物の軸に近いように思えた。
柱穴2(半切した西半部):
帰宅後、配布資料の平面図で、柱穴1~4の大きさ・柱間寸法を大まかに測ってみると、大規模なものと分かった(柱穴3の長径は2m近い。柱間は約2.7mか。)
東に大きく振れる建物(黄色のテープで示されている。西から撮影):
掘り方は円形に近く、梁行の柱間は北より南が広いようだ。総柱の倉庫というよりは、床束を持つ屋(?)という印象だった。
同じように東に大きく振れる建物としては、台地下の調査(『小出川河川改修事業関連遺跡群 Ⅲ』 2010年 ㈶かながわ考古学財団)で、H10号掘立柱建物(4間×3間)・H11号掘立柱建物(3間×3間)が検出されている。それらの軸方向は、小出川の流路に並行する形で、東に振れているようにも思える。
発掘調査現場の北側(台地の北縁)から富士山~大山の山並みを望む:台地下には小出川が南西方向に流れる。