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私の第三十四夜をつづります。

補記:高座郡衙のH1号遺物集中、遺構外の遺物のこと

 1997年からサークルや講座などを通じて私が考古学を学んだ先生が、高座郡衙の年代について、2008~9年頃に主張されていたことの一つを書き忘れていた。
 それは、下寺尾西方A遺跡の「H1号遺物集中」や「遺構外」の遺物が、高座郡衙が9世紀まで存続していた可能性を示しているのではないか、というものだったように記憶している。今回、先生の言葉を思い出しながら、改めて高座郡衙の報告書を眺めてみた。
 
 「H1号遺物集中」では土師器埦などが出土している。報告書の年代観は11c前半とされている(相模国司の大江公資が歌人相模とともに赴任していた時期と重なる…とも言える年代だ)。
 また、遺物(土師器坏2点、土師器埦〔高台付坏〕2点、敲石1点)のうち、土師器3点は逆位で出土している。さらに、そのうちの土師器埦〔高台付坏〕1点は、敲石の上にかぶせられた状態だったという。どこか祭祀的な行為のようにも感じられる。
 似たような例として良いかどうか分からないが、平塚市相模国府域(坪ノ内遺跡第5地点のSX02)でも、轆轤土師器坏75点(10c後半~11c前半。刻書土器「保」6点、「大夫」1点を含む)が出土し、一部が合子状に伏せられた状態だった。また、重ねられた坏の上に礫(29点)が置かれていたという(高座郡衙のH1号遺物集中と年代的にも近く、祭祀的な出土状態も共通しているように思われる)。
 また「遺構外」では緑釉陶器こそ出土していなかったものの、黒笹90号窯式期の灰釉陶器埦の底部片が出土していた。9世紀の痕跡…と言えるだろうか。
 さらに、「範囲確認調査」の遺物には、土師器埦・土師器台付甕各1点(10c後半~11c代)があった。
 2008~9年当時、先生が指摘されていたのは、こうした遺物が語ることを聞き逃してはいけない、ということだったのかもしれない。
 
 高座郡衙の廃絶時期が、報告書の分析のように8c第2四半期初頭であったとしても、この遺跡が展開する台地上では、人々の何らかの営みが、9世紀~10世紀~11世紀と続いた…台地下の下寺尾寺院跡のあり方とも係る営みかもしれないし、予想を超えた別の営みかもしれない。郡衙の存続期間だけに眼を奪われてしまうけれど、それだけではないのだ。そして、すべてが、これからの研究の進展次第なのだと思う。