enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

郡庁と館との関係

 13日の茅ケ崎市遺跡調査発表会のあと、自問自答の堂々巡りが続いている。
 今、もっとも知りたいことは、郡庁と館との時期的な相互関係だ。現時点で私が知り得る限り、これまでの研究者の方々の見解を要約すると、次の①~③のようなものになると思う。

高座郡庁の建物(正殿・後殿・東脇殿など)と館(H5~9号掘立)の時期についての研究者の見解】
①郡庁と館は同時期(郡庁・館の併存=8c第1四半期後半~第2四半期初頭)
②館は郡庁造営に先行し、郡庁成立後は併存しない(館=高座評家の関連施設か? 郡庁=9c代まで存続)
③館は郡庁廃絶後に造営され、郡庁と併存しない(郡庁=7c第3~4四半期から8c第1四半期前半、館=8c第1四半期後半~第2四半期前半)

 各遺構の年代を明らかにすることが難しいためだろうか、郡庁と館の先後関係について、研究者の方々の見解は大きく異なっている。
 そして、これらの見解が、今回の「西方遺跡第1次確認調査」の成果とどのように整合するのか、素人の私には到底分析できない。今日、ランダムに浮かんだ疑問を書きとめておこうと思う。
 
 a: 館の4軒の掘立柱建物と1区確認調査の掘立柱建物との間に、関連性はあるのだろうか(ほぼ真北の方位や布掘りといった共通点があり、関連をもつようにも思える)。
 b: 郡庁内のH1号柵列(P1~7・9)は後殿のH2号掘立を切る、とされているが、H1号柵列のP2は、同時に郡庁内のH2号溝も切っているように見える。
 1区確認調査の2号溝状遺構と郡庁内のH2号溝とが、仮に同一遺構の場合、この一連の溝はともに郡庁後殿より新しい遺構、ということになるのだろうか。
 c: bの疑問をふまえると…仮定に仮定を重ねることになるが…郡庁内のH1号柵列は、1区確認調査の2号溝状遺構(1号溝状遺構と有機的に関連する可能性があるとされる)より新しい、ということにもなるのだろうか。
 その場合、1区確認調査の溝状遺構(8c中頃か?とされる)より、郡庁内のH1号柵列が新しいのであれば、郡庁内のH1号柵列の年代観は8c中頃以降ということになるのだろうか。
 d: a~cの疑問をふまえて、仮に、1区確認調査の1号溝状遺構に切られる掘立柱建物(8c中頃以前か?とされる)と、館の掘立柱建物群とが一連のものとした場合、郡庁内のH2号溝は館よりも新しく、そうであるならば郡庁内のH1号柵列は、館より新しいことになるのだろうか

 今のところ、私の疑問・妄想は、郡庁の存続期間を9世紀代にまで引き延ばす方向へと向かってしまっている。予断によって堂々巡りしていても無意味なこと…頭の中で、そんな声が聞こえる。
 今回の1区確認調査による遺構・遺物の分析をもとに、専門の研究者の方々によって、改めて高座郡衙についての総合的な見解が出ることを期待しないではいられない。
(追記:dにおいて、もっとも知りたいと思う最終的な疑問点を書き誤っていることに気がつき、修正。冷静?になって読み直してみると、自分でも、仮定の積み重ね上の妄想としか読めない。それでも、楽しいのでやめられない…。)