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私の第三十四夜をつづります。

大磯町南仮宿遺跡の大型掘立柱建物

 30日、横浜に出かけ、「神奈川県発掘調査成果発表会2016」に参加した。久しぶりに県内の遺跡調査の最新情報を見聞することができた。
 なかでも、南仮宿遺跡Ⅷ地点(大磯町の警察署新築工事に伴う調査)で、奈良時代の大型掘立柱建物が検出されていることを知ってひどく驚いた。
 詳しい発表を聞くうちに、身近な地域でそのような発見があったことも知らず、現地説明会にも参加できなかったことを悔やんだ(悔やんでも遅い…)。
 
 今回検出された大型掘立柱建物(H8号)は、発表によれば、5間(10.5m)×3間(6.3m)の東西棟で東庇(庇を含む桁行は12.9m)。北西角を除き布掘。
 また、H8号と南西側のH6号(4間×2間の南北棟)とは 「 字型の配置となり、年代は出土遺物から、ともに奈良時代前半頃(共存の可能性)。
 なお遺跡全体図からは、H8号・6号が、南東側の区画溝(H1溝)とともに、(北で)かなり西に振れていることがわかる(海岸線や砂丘列、葛川の流路といった地形に従った振れ方なのだろうか?)。
 
 それにしても相当に大きい…。いきなり5間×3間の大型掘立柱建物が、大磯町のそんな場所から…と思う。これまで、余綾郡衙や余綾国府の推定地とされる馬場台遺跡~六所神社周辺に関心をもっていた私にとっては、国道134号線沿いの大磯町の警察署の地点といえば相当に海寄りであり、意外な場所だった。
 ただ、これまで、『大磯町史』や『おおいその歴史』などで、祇園塚遺跡(南仮宿遺跡の北方にあたる)について着目していた研究者の方々にとっては、この南仮宿遺跡も想定内の地域であったろう、とも思った(帰宅後、『おおいその歴史』を確認すると、「余綾郡家と初期寺院の景観」という鳥瞰図には、まさしく祇園塚遺跡~南仮宿遺跡と思われる場所に、[ の字型配置の官衙建物?がすでに描きこまれていた。また『大磯町史』に掲載された、石野瑛氏による「餘綾國府推定圖」(12世紀後半に大住郡から余綾郡に遷移したとの想定)では、南仮宿遺跡は、余綾国府域の右京?の南西角にあたっている)。
 
 なお、発表者の方は、「遺跡の立地が不動川、葛川の両河川に挟まれ相模湾を望み、近くを旧東海道が通っているなど水上、陸上交通路の結節点に位置していること」(当日の発表要旨から抜粋)に着目されていた。
 また、南仮宿遺跡Ⅷ地点の古墳時代前期の集落が後期にピークを迎えたあと、奈良時代前半の当該期には竪穴建物群が消え、掘立柱建物のみとなる遺跡の様相について、余綾郡衙と関連するような公的性格というものを想定されていた。 
 
 今回の大きな発見で、今後、余綾郡衙や余綾国府の研究が活発化するのではないだろうか…すっかり頭が錆びついていた私も、元気が湧いてくるような発表だった。

追記:
 大磯町南仮宿遺跡Ⅷ地点で、奈良時代前半の5間×3間の大型掘立柱建物が発見されたことを知り、平塚の相模国府域内の遺跡で、同じような条件の掘立柱建物が出ているのかどうか、振り返ってみた。
 結論として、2010年時点で集計されデータによれば、平塚の相模国府域内で5間×3間を超える規模の大型掘立柱建物は、国庁脇殿(9間~×3間)を除き5例ほどあったものの(高林寺遺跡3、坪ノ内遺跡1、新町遺跡1
)、奈良時代前半の年代観を持つものは無かった。
 大磯町南仮宿遺跡の事例は、さらに東西棟で東に庇がつき、掘方はほとんど全周布掘、という条件が加わる。このような事例は、県下でも数少ないのでは、と想像する。
 【註:相模国府域内の大型掘立柱建物は、東西棟より南北棟が多い傾向にある。また、県内の5間×3間の掘立柱建物として、厚木市御屋敷添遺跡第5地点の11号掘立柱建物も南北棟。海老名市本郷遺跡KE・RC地区の5号掘立柱建物も南北棟(南西-北東軸)。】