12日、久しぶりに千年伊勢山台遺跡の現地説明会に出かけた。
2004年1月の橘樹郡衙跡、2006年10月の影向寺遺跡で行われた現地説明会を最後に、10年近く訪れていなかった調査現場だ。今回、台地東側の正倉群、西側の古代寺院との中間あたり…やや西寄りの地点での調査成果(第17次)を見学できた。
説明では、今回の調査で、南側隣接地で検出されていた南北棟の大型建物跡(新旧2棟:SB338>SB339)の規模が、それぞれ5間×3間、6間×3間と確認できたとのことだった。時期は、「遺物(須恵器・土師器など)から奈良時代終わり頃」との説明があったので、橘樹郡衙跡の時期区分では”Ⅱb期(8世紀中葉~後半”)にあたるのだろうか。
【西地区では、これまで第5次1区の調査で、今回と同じようなやや東に振れた南北棟の掘立柱建物(SB03)が出ていて、その時期は”Ⅱa期(8世紀前半~中葉)”とされている。また、中央地区でも、やや東に振れた総柱建物群(正倉:北 SB01~北 SB04)の時期が”Ⅱb期(8世紀中葉~後半)”とされている。】
今回の8世紀代におさまる南北棟の大型建物の性格については、橘樹郡衙を構成する”館”ではないか?と想定されているようだ。標高約40mの台地上で、東西500~600mに展開する正倉と寺院の景観。そこにまだ見えてこない政庁空間。
10年前頃、各地の現地説明会に出かけて、今後の調査を見届けられるかどうか…などとは考え及びもしなかったが、最近は、そんな思いもよぎったりするようになった。ただ、遺跡が謎のままであることもまた、楽しく魅力的であることに違いないのだ。
9月12日:第17次調査1区の掘立柱建物の遺構-西から撮影(右手のSB0338の柱掘方が左手のSB0339の北西角の柱掘方を切っている)
9月12日:第17次調査2区-北東から撮影(写真左奥の遺構は、1区のSB0338・SB0339の北東角の柱掘方。南北直線状に並ぶ右手の掘立柱掘方については性格不明。)
橘樹郡衙跡の台地から東を望む…平塚市内で、もし同じような標高で正倉群が展開するとすれば、真田北金目台地などが相当するのだろうが、現時点では正倉の影も形も見えない。大住郡衙の景観はどこに求めればよいのだろうか。台地上ではなく、砂丘上だろうか。それとも、平塚市域外なのだろうか。
2004年1月(第7次)の現地説明会の記録写真から…復習するために、当時の紙焼き写真や資料を眺めてみた。この時は、中央地区の7 SB01の遺構(正倉とされる総柱建物)を見学してきたのだろうと思う。当時、調査を担当されていた長身のK氏の身長と比べると、総柱建物の掘方の規模が分かる。ほぼ正方位と思われる7 SB01の時期は、”Ⅱa期(8世紀前半~中葉)”とされているようだ。