enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

「高座郡家」は現在進行形。

20日、横浜で考古学講座「近年の調査からみる高座郡家の様相」加藤大二郎氏)を聴いた。
2時間の講座は、最前線の調査成果に加えて講師の新鮮な見解も盛り込まれ、とても楽しいものだった。それらの多様な情報と見解に一気に触れたことで、錆びついて止まっていた時計が再び動き出したような気がした。
思えば「高座郡(たかくらぐうけ)…これまで個人的には「高座郡衙(こうざぐんが)」と呼んできたけれど…の郡庁発見(2002年)相模国府の国庁発見(2004年)から、20年という時間が堆積していたのだった(画期的な発見がもたらした当時の興奮も、それぞれの調査報告書やその後の検証によってしだいに鎮静化し、20年の時間の堆積のなかに埋もれてしまっていた)

そこで、私の”二十年ふた昔”となった過去の情報を見直し、更新するために、個人的な「高座郡家の変遷表」を作ってみた(現時点の私の拙い理解による変遷表ではあるけれど、覚書として残しておきたい)

〔註〕以下の表は、かつて明石 新氏が示された”「郡庁」の変遷の見直し”(「相模国高座郡衙(西方A遺跡)の諸問題について」明石 新 2007年『杉山先生古希記念論集』)を基本として、過去の資料情報や今回学んだ調査成果・見解などを加えたものです。私の情報不足・理解不足で問題点があると思いますが、今後もできる限り見直し、更新・修正したいと思います。

 

【個人的table:高座郡家の変遷表】

参考資料:「相模国高座郡衙(西方A遺跡)の諸問題について」(明石 新 2007年『杉山先生古希記念論集』)、『古代東国の地方官衙と寺院』(2015年 史学会例会シンポジウム)、『第28回茅ケ崎市遺跡調査発表会』発表要旨(2017年)、「重なる史跡における保存活用-史跡下寺尾官衙遺跡群と史跡下寺尾西方遺跡-」(大村浩司 2020年『茅ヶ崎市教育委員会平成30年度遺跡整備・活用研究集会報告書』など)

 

なお、今回の講座資料中の「近年の調査によりわかってきたこと」を次の通り、掲げておきたい。
〔令和5年度第6回考古学講座「近年の調査成果からみる高座郡家の様相~国史跡 下寺尾官衙遺跡群~」(茅ヶ崎市教育委員会 加藤大二郎)より引用・転載〕
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1 正殿を囲む脇殿が左右対称ではなく、西脇殿が東脇殿より小さかったことがわかりました。
2 館・厨と想定された建物群が西側にも存在していることがわかり、建物周辺から「厨」と墨で書かれた土器が発見され、建物群が厨の可能性が高まりました。
3 郡家推定東側区画遺構より外(東側)において、古代の版築遺構が複数存在することを発見しました。
4 郡家推定東側区画遺構の出入り口部を発見しました。
5 郡家推定東側区画遺構より外(東側)において、区画遺構と近似した溝を発見しました。
6 郡家の立地する高台の地形において、郡家東側の南部が1707年以前に奥行約1.5m、高さ約20㎝の階段状に約50mの距離の間を掘削されている可能性を確認しました。
7 正殿南側の道路部分において、整地の可能性の高い土層を確認しました。
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6の”階段状遺構”は、「高座郡家」に係るかどうかは不明であるけれど、郡家南西部の段切り造成・道状遺構などとともに、その全体像が今後の調査によって明らかになると嬉しい。
7の”正殿南側の整地層”についても、郡庁の変遷・存続期間に関連する可能性のある調査成果として、今後の分析・検証が楽しみな要素だった。

また、当日の会場内に展示されていた濃緑色の緑釉陶器(美濃産)も、小出川旧河道から出土している皇朝十二銭などとともに、「高座郡家」・「下寺尾廃寺」の時期変遷にも係わりそうな資料として興味深かった。 
小出川・駒寄川の旧河道出土の多様な資料…祭祀などに係る特殊な性格をうかがわせる資料…は、相模国府域で言えば、谷川沿いの構之内遺跡に似ているように感じる。また駒寄川の「田」墨書土器の出方も、真田・北金目遺跡群…相模国府域から離れた平塚市北西部に位置する…の水場遺構出土の「田」墨書土器と似ているように思う。そして、それらの資料の背景に、当時の郡司層の人々の活動が見えてくるように感じる。)

 

高台面を見せている中央の緑釉陶器:奈良三彩のような濃緑色が特徴的だ。



【追記①】高座郡衙について考える時によく思い出すのは、発見当時の明石先生の「あの現場(旧北稜高校のグラウンド)は、グラウンドを造る時にごっそり削られているようだから…という言葉だ。明石先生は当初から、造成で削り取られてしまった土層高座郡衙の9~10世紀の様相を語ってくれるはずの土層…を念頭に置き、また遺構外から9世紀の遺物が出土していることもふまえて、高座郡衙の年代観を考察されていたのだろうと想像する(その論考「相模国高座郡衙(西方A遺跡)の諸問題について」の中で、”高座郡衙は9世紀まで存続していたと積極的な解釈をしたい”と述べられている)
今回、区画溝の外(東側)で古代の版築遺構…礎石建物跡…が発見されていること、郡庁の北西部で9c中頃の「厨」墨書土器が発見されていることなどを知って、当時の明石先生の”積極的な解釈”が少しずつ具体化されているように感じている。
高座郡家」の調査・研究はいまだ進行形であるし、今後も進化していくのだろうと思う。

【追記②】なお、2017年11月の『enonaiehon』(西方遺跡(下寺尾官衙遺跡群)の平安時代の溝 - enonaiehon (hatenadiary.jp))の中で記していた”平安時代の溝”について、今回すっかり失念していたことに我ながら驚く。
慌てて『第28回茅ケ崎市遺跡調査発表会』発表要旨(2017年)を読み直す。

その”平安時代の溝”とは、第4次調査で”西方建物”の東側に発見された「1号溝」(幅2.5mの南北溝の上面に9c後半~10c代の遺物)なのだった。

(「高座郡家変遷表」を修正して、この”平安時代の溝”を加えなければ…やれやれ…)

ここで、改めて疑問に思う。
この第4次調査の”平安時代の溝(1号溝)”は、「高座郡家」の西側区画溝としての可能性はないのだろうか?と。
そして、今回の講座で配布された資料中の図「高座郡家で発見された遺構」に示された第7次調査B区の遺構(”溝状遺構”という情報を持っていないけれど)と関連するのだろうか?と。
(現在、「高座郡家」の西側区画溝が、西方B遺跡第1次調査A区の南北に走る大型溝状遺構…のように見える…に相当するならば、その年代観を知りたいと思う。
また、上掲の「近年の調査によりわかってきたこと」‐5の  ”郡家推定東側区画遺構より外(東側)において(発見された)区画遺構と近似した溝”  の具体的な位置付けも知りたいと思う。)

このように、「高座郡家」は現在進行形なのだった。