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私の第三十四夜をつづります。

古代の大型道路跡:国府台遺跡第192地点

 3日、「下総国庁につながるとみられる古代の大型道路跡」が発見された市川市国府台遺跡の現地説明会に参加した。 
 これまで、東国地域で検出された道路跡を何度か見学した。その印象は、そのたびに個性的なものだった(つまり、地域それぞれで独自な姿を示している…という印象)。
 今回は、国府域内の道路という点で、平塚市相模国府域(構之内遺跡・山王A遺跡・山王B遺跡・東中原E遺跡など)で検出された”東海道駅路”(とされる)遺構とは、どのように異なるのだろうか、という関心があった。
 
 現場は、千葉商科大(北側)や和洋女子大(北西側)、国府神社(南西側)や弘法寺(南東側)などに囲まれた、標高20mほどの地点だった(元は県営住宅地)。
 調査区は南北に分かれ、見学者は中央部と周囲から遺構を見学する形になっていた。
 説明が始まる前に、配布資料を見ながら、眼の前の現場と見比べて歩く。情けないことに、『あまり良く分からない…』。担当者の方々の説明を聞いて、ようやくぼんやりとしたイメージを描く。
 私なりにおおよそ理解したことや印象をまとめると、次のようなものになる。
 
 ☆東西に側溝を持つ「路面幅は9mほど」の南北方向の古代道路で、延長線上に下総国庁推定地(市営総合運動場の野球場付近)がある→「当時のメインストリート」を想定。
  【参考:相模国府域内の東西道路(奈良・平安時代)は、側溝心々距離が9m前後。東延長線上の北側で”相模国庁”(とされる)遺構が検出されている。】

 ☆当初の道路機能が失われるなかで、西側溝は区画溝として掘り直された可能性を想定。
 
 <調査区南側について>
 *硬化面の遺構が残っていない。
  (配布資料上では、硬化面の一部が残っていることが分かる。)
 *東側溝は深さ0.7m。
 *西側溝は最深1.8m。
  (配布資料上では、西側溝のなかで最も西寄りの側溝が、東寄りに2回掘り直されているようだ。その最終的な側溝の深さが1.8m。)
 *東西側溝のそれぞれと道路との時期関係は不明。
  (比較的に浅い東側溝の展示遺物は無し。掘り直されている西側溝の古代の展示遺物は奈良・平安時代の土師器・須恵器など。)
 
 <調査区北側について>
 *硬化面の遺構が全く残っていない。
 *東西側溝の違いは、調査区南側ほどではない印象。
  (西側溝は、配布資料上では1回掘り直しされているか?)

 以上のような私の限られた理解では、下総国府の”メインストリート”というイメージは、いまだ浮かび上がってこない。
 ただ、今回、国府台の台地に向かって、台地の南を流れる真間川を渡り、西に流れる江戸川を意識しながら現場にたどり着いたことで、下総国府の立地のあり方を少しつかめたように思う。そのあり方は、どこか相模国高座郡衙のあり方に通じるものがあるように感じた。現地説明会に出かけることで、下総国府にまた少しだけ近づけたようで嬉しい。

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調査区全体のようす(北東から)
:調査区は北側(手前)と南側(奥)に分かれている。説明会開始前なので、見学者がまだ少ない。

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調査区南側の西側溝(南西から)
:現場で見学可能な南側の西側溝を覗き込む。断面全体は見えない。配布資料では、北側の西側溝と同じように、1回掘り直しされているように思えるけれど。

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調査区北側のようす(東から)
:東西両側溝の間には、別の溝跡が調査区北側にも南側にも存在するように見える。ただし、古代道路の時期には存在しなかった溝、とのことだった(その時期判断の理由は聞きそびれてしまった)。

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西側溝出土の遺物
:土師器は10c代、須恵器は8c代とのこと。

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西側溝出土の墨書土器片
:9c代前半?とのこと。「葛」は”葛飾郡”を示しているようだ。今回の現場の南東約200mの第3地点(弘法寺)の調査では”郡家の正倉”と推定される遺構(屋おく?)が出ているという。
【参考:下総国府域の第4-8地点(千葉商科大学構内)の4号穴(氷室? 8c中葉~10c前葉)から、「国厨」墨書土器も出土している。】