これまで、東国地域で検出された道路跡を何度か見学した。その印象は、そのたびに個性的なものだった(つまり、地域それぞれで独自な姿を示している…という印象)。
今回は、国府域内の道路という点で、平塚市の相模国府域(構之内遺跡・山王A遺跡・山王B遺跡・東中原E遺跡など)で検出された”東海道駅路”(とされる)遺構とは、どのように異なるのだろうか、という関心があった。
調査区は南北に分かれ、見学者は中央部と周囲から遺構を見学する形になっていた。
説明が始まる前に、配布資料を見ながら、眼の前の現場と見比べて歩く。情けないことに、『あまり良く分からない…』。担当者の方々の説明を聞いて、ようやくぼんやりとしたイメージを描く。
私なりにおおよそ理解したことや印象をまとめると、次のようなものになる。
☆東西に側溝を持つ「路面幅は9mほど」の南北方向の古代道路で、延長線上に下総国庁推定地(市営総合運動場の野球場付近)がある→「当時のメインストリート」を想定。
☆当初の道路機能が失われるなかで、西側溝は区画溝として掘り直された可能性を想定。
<調査区南側について>
*硬化面の遺構が残っていない。
(配布資料上では、硬化面の一部が残っていることが分かる。)
*東側溝は深さ0.7m。
*西側溝は最深1.8m。
(配布資料上では、西側溝のなかで最も西寄りの側溝が、東寄りに2回掘り直されているようだ。その最終的な側溝の深さが1.8m。)
*東西側溝のそれぞれと道路との時期関係は不明。
(比較的に浅い東側溝の展示遺物は無し。掘り直されている西側溝の古代の展示遺物は奈良・平安時代の土師器・須恵器など。)
<調査区北側について>
*硬化面の遺構が全く残っていない。
*東西側溝の違いは、調査区南側ほどではない印象。
(西側溝は、配布資料上では1回掘り直しされているか?)
以上のような私の限られた理解では、下総国府の”メインストリート”というイメージは、いまだ浮かび上がってこない。
ただ、今回、国府台の台地に向かって、台地の南を流れる真間川を渡り、西に流れる江戸川を意識しながら現場にたどり着いたことで、下総国府の立地のあり方を少しつかめたように思う。そのあり方は、どこか相模国の高座郡衙のあり方に通じるものがあるように感じた。現地説明会に出かけることで、下総国府にまた少しだけ近づけたようで嬉しい。
調査区全体のようす(北東から)
:調査区は北側(手前)と南側(奥)に分かれている。説明会開始前なので、見学者がまだ少ない。
調査区南側の西側溝(南西から)
:現場で見学可能な南側の西側溝を覗き込む。断面全体は見えない。配布資料では、北側の西側溝と同じように、1回掘り直しされているように思えるけれど。
調査区北側のようす(東から)
:東西両側溝の間には、別の溝跡が調査区北側にも南側にも存在するように見える。ただし、古代道路の時期には存在しなかった溝、とのことだった(その時期判断の理由は聞きそびれてしまった)。
西側溝出土の遺物
:土師器は10c代、須恵器は8c代とのこと。
西側溝出土の墨書土器片