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私の第三十四夜をつづります。

高林寺遺跡第7・第9地点の区画溝の”可能性”

 

≪map:高林寺遺跡第7・第9地点の区画溝の周辺≫

 

高林寺遺跡第7・第9地点の区画溝について、2年前の『enonaiehon』では次のようにおさらいし、要約している。

「…この区画溝の解釈については、
①1988・1990年の報告書で”8c中葉~10c前半の相模国庁区画溝”と想定されたのち、
②”相模国庁区画溝”説への疑問が問いかけられ(明石 新「相模国府域の様相-国府域内の集落の分析をとおして-」1995年 『考古論叢 神奈河』第4集)
③1999年に第12地点の報告書で”第7・第9地点の区画溝は11cを遡らない”と検証され、第12地点の区画溝と一体の”13c代の区画溝”、”鎌倉時代の居館の可能性”と位置づけられ、
④さらに「石清水八幡宮の相模古国府預所(田尾誠敏「相模国の郡家と国府をめぐる諸問題」2018年『考古論叢 神奈河』第25集)との具体的な想定が提示される、という段階にきている。…」
高林寺遺跡第7・第9地点の区画溝について - enonaiehon (hatenadiaryjp)

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今回、平塚八幡宮について妄想を進めるなかで、やはりこの区画溝に突き当たった。

相模国府や歌人相模に関する妄想が堂々巡りして行き着く遺跡「高林寺遺跡第7・第9地点」。
いまだ、その区画溝に関する解釈の可能性をあきらめず、いつか、区画溝を乗り越え、区画溝内部の古代の姿を見てみたいと願っている。

田尾氏が指摘するような「石清水八幡宮の相模古国府預所」、あるいは”区画溝周辺に9c前半の国庁”が存在した可能性などを励みにして、改めて妄想の仕切り直しをしたい。

 

【「高林寺遺跡第7・第9地区の区画溝について」(2008年作成のプリントから)
   (註:プリントでは、例えば「第7地区の05溝状遺構」は、「7‐05」と略記している。
      また「四之宮下之郷編年の1期~15期」の各期は、「~期」と略記している。)

〔別紙1〕第7・第9・第12地区の位置関係図(破線===:中世の「方形区画」の想定)

〔別紙2‐1〕四之宮下之郷編年による時期別変遷図

〔別紙2‐2〕

〔別紙3〕四之宮下之郷編年表

〔本文p.6から抜粋〕

(前略)

◆中世区画溝としての可能性をどう考えるか?
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区画溝「7‐05」・「9‐01」を、「12‐01」・「12‐03」と一体の中世(13c代)の「方形区画」と捉える場合、次の問題点(①・②)が生じる。
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① 第7地区で、竪穴住居址SI01(15期)の下面で区画溝「7‐05」が検出されていること。また「7‐05」の真上に竪穴住居址SI15(14期)が検出されていること(報告書で「遺構年代は(区画溝より)SI15のほうが新しい」とされている)
これらの切り合いが正しければ、区画溝は14期以前の遺構であり、中世のものにはなり得ない。

② その一方で、前述した通り、第12地区の報告書で栗山氏は、区画溝「7‐05」とSI15の確認面の標高を検証し、「SI15(14期)が「7‐05」に先行する」とした。

 さらに第9地区の溝状遺構「9‐01」が竪穴住居址?SI10(9期)を切っていることや、SI02(14期)・SI04(13期)の確認面の標高の検証から、「(SI02・SI04は)やはり「9‐01」に切られている」とし、「この区画溝は少なくとも11世紀を遡らない」と結論している。

 ただし、この場合においても、11c代の古代区画溝としての可能性は残る。「12‐01」・「12‐03」と一体の中世(13c代)の「方形区画」と導くためには、さらなる具体的な検証が必要ではないかと感じられる。
(後略)
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(前略)
◎第9区の道路状遺構SF01は「この遺跡での一番新しい遺構」「中世初頭の12c後半から13c初頭」と報告されている。とすれば、この道路状遺構は栗山氏が想定する13c代の「方形区画」を横切る可能性があるのではないか。
(後略)
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今、このプリント全体を読み直してみると、高林寺遺跡の区画溝に対する当時の思い入れの強さを感じる。
一方で、◎の第9区SF01の粗雑な捉え方などには『あ~ぁ…』と思ったりするのだった。