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私の第三十四夜をつづります。

稲荷前A遺跡第4地点~諏訪前B遺跡の調査~高林寺遺跡のこと②

 

10日の午後、諏訪前B遺跡をめざした。
調査中の現場を「私的に覗く」のは、いつも疾しい気がする。撮影する際にはなるべく差し障りのないように撮っているけれど…。

 

調査中の現場f:id:vgeruda:20210614125545j:plain

 

この現場まで(治療中の股関節周りを酷使しないよう)バスに乗った。
帰りは、気持ちの良い風に誘われて、あちこち立ち寄りつつ、ゆっくりと歩いて帰った。歩くと、地形の微妙な高低差が体に伝わってくる。諏訪前B遺跡の地域は標高が高く、その後、駅まではゆるやかに下っているのだ。

 

相模国府域は、東西に走る第3・第4砂丘列上に展開し、砂丘間凹地は谷川(やがわ)堀という低地になっている。

諏訪前B遺跡は、その砂丘間凹地の東の最奥部で第3・第4砂丘列が ⊃ 字状に交わる、言わば要のような地点に位置している。
(諏訪前B遺跡から見て、北東方向の湘南新道関連遺跡で国庁建物が発見され、また東隣には高林寺遺跡が、南東には稲荷前A遺跡や、「下ノ郷廃寺跡」と呼ばれる遺跡〔遺跡名:高林寺寺院跡、高林寺遺跡第5地点として1983年に調査〕が位置している。)

そして、国府域西部の構之内遺跡で検出された古代東海道(前期道路は8c第4四半期まで存続。後期道路は9c中葉には機能~11c初めまで存続は、砂丘間凹地の北側(第3砂丘列の南縁)を東に直線的に走り(山王A遺跡第2地点では8c後半~10cの存続)、その東延長線上に諏訪前B遺跡が位置することになる。


さて、現場では移植ゴテで丁寧に掘り下げているところだった。
西隣の山王A遺跡(第2・第3・第6地点)のなかで確認されている古代東海道の延長線が、今回の諏訪前B遺跡の調査でも把握されるのだろうか?

今のところ、私の妄想はまだ、2012年当時のまま停滞している。

覚書:国府域東端の古代道(1) - enonaiehon (hatenadiary.jp)

覚書:国府域東端の古代道(2) - enonaiehon (hatenadiary.jp)

つまり、この砂丘間凹地を走る古代東海道が、第3砂丘列の高まりを越えて北東方向の国庁建物所在地へと向かうことはないのでは?と考えている。単純な理由として、第3砂丘列上に広がる国府域中枢部を、大胆に(?)横切るルートを妄想できないのだ。
(構之内遺跡で検出された古代東海道が、国庁建物の造営と同時期あるいは先行して整備されたのであれば、第3砂丘列を斜めに横断して国庁に向かうプランもあり得るけれど。)

で、その代わりの消去法的なルートとして、高林寺遺跡を東西に横切り、八王子街道に突き当たる(高林寺遺跡第8地点周辺で左折し、国庁建物へ北上することが可能)という道筋を想定している。

以下は、国府域における古代東海道ルートの東の終点を想定しつつ、高林寺遺跡第7・第9地点、第12地点の位置づけについて、今回、脈絡なく思い巡らしたことを書き留めたものだ。
(この問題についてもまた、2008年3月9日、サークル内で発表した「高林寺遺跡:第7地区・第9地区の区画溝について」の妄想の段階から、ずっと停滞したままなのだった。)


これまで、諏訪前B遺跡については、溝状遺構の多さ、馬歯、皇朝十二銭「冨壽神寶」や青磁白磁などの出土を特徴とする遺跡として捉えてきた。
(なお、上掲の写真でブルーシートに覆われている場所…諏訪前B遺跡第4地点に該当するはず…は、8c代中心の居住空間と考えられている。)

また、この諏訪前B遺跡の現場の東真向かいは高林寺遺跡第7地点・第9地点に相当する。
仮に、古代東海道の東延長線がこの諏訪前B遺跡の調査で確認されたならば、その道路は高林寺遺跡にぶつかる可能性が出てくるけれど、これまでの調査では、そうした道路状遺構は検出されていない。
(1986年・1987年の高林寺遺跡第7・第9地点の調査で検出された 字型の大型区画溝については、”相模国庁の8c中葉~10c頃の区画溝”と想定された。しかし、その後、1991年の高林寺遺跡第12地点の調査で確認された区画溝とともに改めて検証されることとなる。つまり、高林寺遺跡第7・第9地点の区画溝は ”11cを遡らない遺構” と結論づけられ、第12地点の区画溝とともに、”13cの長方形区画溝” として見直されることとなったのだ。
ただ、素人の理解として、第9地点の南北溝の土橋状遺構の土塁について、古代の遺構の名残りとして生きながらえているのでは?…13cの中世遺構では無いはず?…と小さな希望を持っている。 
また、第7・第9地点の ”11cを遡らない区画溝” を、第12地点の区画溝と一体のものと見なさずに、逆に、11c代の所産の別個の区画溝として見直すことはできないものか…との希望も残している。
例えば、1024年頃、相模国司・大江公資の「たち(館)」が焼失したあとに再建、あるいは移転された「たち(館)」の可能性を想定するなど…。
なお、今回「諏訪前」の地名が気になり、『平塚市地名誌事典』〔2000年 小川治良〕を参照すると、「往古諏訪社が大野小学校正門南方約100mの地点にあったと言われ、最近まで社地として15坪の土地があったという。地名はその所在によると考える。」と解説されていた。この「往古諏訪社」の位置は、ちょうど高林寺遺跡第12地点の南東部に相当する。肝心な社地の存続時期や移転の有無も不明だが、第12地点での中世の硬化面(13c前半中心)と整地層(13c代)が出ていることと繋がれば面白いと感じた。)


こうして、諏訪前B遺跡の調査現場を”覗き見”したことで、停滞していた妄想はますます、その度合いを深めてゆく。