そして、その後の調査成果を知るには、最新の発掘調査報告書を読む以外に方法は無い。素人の理解力で地図を眺め、実際に歩き、基礎知識の無いままに報告書を読み、ウロウロと景観復元の道を進むしかない。
国府域を東西に走る古代道の東延長線については、山王A遺跡第6地点まで確認されているが、その先は不明のままだ。
ただ、私の妄想的推定ルート(”四之宮・八幡の境界線”と重なるルート)と、諏訪前B遺跡の試掘調査地点とを繋ぐような調査成果が出ている。それが、高林寺遺跡第16地点の硬化面だ(報告書では5号住居址として「貼床面のみの検出」とする一方、「道路状遺構などの硬化面となる可能性も考えられる」とされている)。
この高林寺遺跡第16地点から、西約250mに山王A遺跡第6地点、西隣30mに諏訪前B遺跡第6地点、東約200mに高林寺遺跡第8地点がある。
更に東に延長した先に”四之宮・八幡の境界線”が続く…。
そして、第16地点の北東120m先に北向観音(大会寺)、500m先に国庁跡がある。
更に東に延長した先に”四之宮・八幡の境界線”が続く…。
そして、第16地点の北東120m先に北向観音(大会寺)、500m先に国庁跡がある。
第16地点の遺跡概要について、報告書の「まとめ」から要約してみると、
*検出遺構は、奈良・平安時代の竪穴住居址5軒、竪穴状遺構2基、井戸址5基、溝状遺構44条、小ピット約20基
*出土遺物の主体時期は9世紀中葉~後葉
*遺構分布状況として、北半部は東西溝と竪穴住居、南半部は南北に平行する小規模溝状遺構群、という様相差が見られる
これらの成果をふまえ、高林寺遺跡第16地点の硬化面について、硬化面北側の東西溝(3号溝・7号溝、ともに古代)と、この3号溝・7号溝から約8m南側の東西溝(4号溝:9世紀中葉~10世紀代、5号溝:9世紀代廃絶、4号溝は5号溝の作り替えの可能性)とを、仮に道路(硬化面)側溝として想定するには、両側の東西溝に規模・年代の一致などの関連性が認められる必要がある。が、報告書の記述のなかに、そのような想定を伺うことはできない。
(注:並行する3・7号溝はともに深さ約40cm、幅不明。4号溝は深さ約1.2m、最大幅約3.1m。5号溝は深さ約0.6m、最大幅約0.7m。検出規模は、3号溝約2.3m、7号溝約1.5m、4号溝約10m、5号溝約2.3m。断面は3・4・5号溝ともに逆台形。北側の3・7号溝は、南側の4・5号溝に比べ、規模が小さいようだ。また、年代的には、構之内遺跡で検出された古代東海道…前期:8世紀第4四半期まで。後期:9世紀~11世紀初めまで…とは異なり、11世紀代までは継続しないようだ)。
ただ、古代東海道の推定延長線上の遺跡として高林寺遺跡第16地点の性格を考えるうえで、次の点を補足しておきたい。
第16地点の西隣にあたる諏訪前B遺跡第6地点も、溝状遺構を主体とする”生産空間”として位置づけられている。そして8世紀の所産と考えられる南北溝の覆土から、(若い個体を含む)多量の馬歯が出土し、祭祀に伴うものとされている。
また、第16地点の東延長先にあたる高林寺遺跡第8地点も砂丘間凹地に立地し、7世紀末から(10世紀前半代を除いて)12世紀にかけての、溝状遺構と井戸を主体とする遺跡とされている。