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私の第三十四夜をつづります。

覚書:国府域東端の古代道(2)

 相模国府域を東西に走る古代道の東端は、どこで相模川を渡河するのか。
 
 国府の景観を考える時、常に立ち戻る教科書が『平塚市11 別編考古(2)』(2003年)だ。
 砂州砂丘列とその凹地、自然堤防などの遺跡の発掘調査報告書をもとに、相模国府域の個々の遺跡の特色ある様相が詳細に分析・再検証されている。
 そして、その後の調査成果を知るには、最新の発掘調査報告書を読む以外に方法は無い。素人の理解力で地図を眺め、実際に歩き、基礎知識の無いままに報告書を読み、ウロウロと景観復元の道を進むしかない。 
 
 国府域を東西に走る古代道の東延長線については、山王A遺跡第6地点まで確認されているが、その先は不明のままだ。
 ただ、私の妄想的推定ルート(”四之宮・八幡の境界線”と重なるルート)と、諏訪前B遺跡の試掘調査地点とを繋ぐような調査成果が出ている。それが、高林寺遺跡第16地点の硬化面だ(報告書では5号住居址として「貼床面のみの検出」とする一方、「道路状遺構などの硬化面となる可能性も考えられる」とされている)。
 
 この高林寺遺跡第16地点から、西約250mに山王A遺跡第6地点、西隣30mに諏訪前B遺跡第6地点、東約200mに高林寺遺跡第8地点がある。
 更に東に延長した先に”四之宮・八幡の境界線”が続く…
 そして、第16地点の北東120m先に北向観音(大会寺)、500m先に国庁跡がある。
  第16地点の遺跡概要について、報告書の「まとめ」から要約してみると、 
 *地形的には第3砂丘列南縁辺部から砂丘間凹地に該当する
  (注:国府域の東西古代道は、同じ第3砂丘列南縁辺部を谷川〔やがわ〕に沿うように通っている)
 *検出遺構は、奈良・平安時代の竪穴住居址5軒、竪穴状遺構2基、井戸址5基、溝状遺構44条、小ピット約20基 
 *出土遺物の主体時期は9世紀中葉~後葉
 *遺構分布状況として、北半部は東西溝と竪穴住居、南半部は南北に平行する小規模溝状遺構群、という様相差が見られる
 *砂丘南縁辺部~砂丘間凹地に立地する本遺跡と類似する遺跡として、小規模な南北溝群を主体とする諏訪前B遺跡第1地点・第3地点があり、”生産空間”としての想定がなされている、 となる。
 
 これらの成果をふまえ、高林寺遺跡第16地点の硬化面について、硬化面北側の東西溝(3号溝・7号溝、ともに古代)と、この3号溝・7号溝から約8m南側の東西溝(4号溝:9世紀中葉~10世紀代、5号溝:9世紀代廃絶、4号溝は5号溝の作り替えの可能性)とを、仮に道路(硬化面)側溝として想定するには、両側の東西溝に規模・年代の一致などの関連性が認められる必要がある。が、報告書の記述のなかに、そのような想定を伺うことはできない。
 (注:並行する3・7号溝はともに深さ約40cm、幅不明。4号溝は深さ約1.2m、最大幅約3.1m。5号溝は深さ約0.6m、最大幅約0.7m。検出規模は、3号溝約2.3m、7号溝約1.5m、4号溝約10m、5号溝約2.3m。断面は3・4・5号溝ともに逆台形。北側の3・7号溝は、南側の4・5号溝に比べ、規模が小さいようだ。また、年代的には、構之内遺跡で検出された古代東海道…前期:8世紀第4四半期まで。後期:9世紀~11世紀初めまで…とは異なり、11世紀代までは継続しないようだ)。
 
 ただ、古代東海道の推定延長線上の遺跡として高林寺遺跡第16地点の性格を考えるうえで、次の点を補足しておきたい。
 第16地点の西隣にあたる諏訪前B遺跡第6地点も、溝状遺構を主体とする”生産空間”として位置づけられている。そして8世紀の所産と考えられる南北溝の覆土から、(若い個体を含む)多量の馬歯が出土し、祭祀に伴うものとされている。
 また、第16地点の東延長先にあたる高林寺遺跡第8地点も砂丘間凹地に立地し、7世紀末から(10世紀前半代を除いて)12世紀にかけての、溝状遺構と井戸を主体とする遺跡とされている。
 そして、諏訪前B遺跡第6地点と同様、多量の馬骨・馬歯を出土するため、官衙東端の”祓所”、国府関連の祭祀場としての性格が想定されている。
(ただし『平塚市史』においては、祭祀が古代終末まで継承されたことの意義を評価するものの、あくまで律令祭祀的な性格とは異なるレベルのものと分析されている。)
 
 以上のように、古代道の東延長先として、高林寺遺跡第16地点を想定する時、国府域から相模川へと渡河する手前の景観として、周辺の砂丘間凹地に”生産域”が展開すること、またルート沿いの遺跡に祭祀的性格が伺えることなどは、国府と古代道の機能に係わっているように思えてくる。そして再び、堂々巡りの疑問が浮かぶ。歴代の相模国司たちは、相模川をどの地点で渡河したのだろうかと。