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私の第三十四夜をつづります。

覚書:「大上」墨書土器3点について

 これまでの研究成果に基づく相模国府推定域について、その地理的景観を大まかに捉えると、次のように要約できると思う。
 *東西に延び、南から北に連なる砂州砂丘列が、北・西側は渋田川、東側は相模川に画されること。
 *国府域は、西に開く谷川(やがわ)によって、第3砂丘列の北半部と、第4砂丘列の南半部とに画されること。
 *砂丘間凹地の谷川を囲むように、官衙域や集落域、生産域が展開していること。
 *古代東海道とされる道路が、第3砂丘列の南縁辺部を谷川に沿って東西に走ること。
 *特に、第3・第4砂丘列の東端部に相模国府の中枢域が展開していること。
 
 そして、古代道東端での相模川渡河点について思いを巡らすなかで、「大上」墨書土器のことを思い出した。
 国府域内で最初に「大上」墨書土器の出土が報告された(1990年)のは高林寺遺跡第8地点である。その後、湘南新道関連遺跡群の調査において、大会原遺跡第4地点で2点が報告されている(2007年)。
 ①高林寺遺跡第8地点の「大上」1点:土師器皿、体部外面、12号溝状遺構
 ②大会原遺跡第4地点の「大上」1点:土師器坏、体部外面、C21号溝状遺構
 ③大会原遺跡第4地点の「大上」1点:ロクロ土師器坏、体部外面、C21号溝状遺構
                        (注:中世溝のC21号溝内で古代遺物が集中して出土している)
 なお、①~③の実年代について、報告書などには記載されていないが、(全くの素人の読解力で心もとないけれど)これら3点は、ともに9世紀中葉~後半の年代ではなかろうかと思う。
 また②・③については、『湘南新道関連遺跡Ⅰ』の報告書で「…”大上”は、現在の平塚市大神付近に相当する”大上郷”を示すものと考えられる貴重な資料と言える。」と評価されている。
 
 以上の3点の「大上」墨書は、ともに判読しやすく、しかも小ぶりで細めの筆使いであるように思う。そして、国府域内の墨書土器には「大」・「大~」の文字も多く、また「~上」の墨書土器も見られるのだが、やはり報告書の通り、「大上郷」に係わる儀礼などに使用されたものと考えて良いのだろう。
 そして、「大上」に関連しては、これらの土器年代観と近い時期の人物として、『三大実録』(巻二 貞観元年三月五日)に載る「大神朝臣仲麻呂」が挙げられると思う。
(注:「大神朝臣仲麻呂」は、『三大実録』で「相模国大住郡大領外従五位下壬生直広主従五位下 正六位上大神朝臣仲麻呂従五位下」とある。ただし、相模国の大上郷と係わる人物名であるのかどうかは不明。なお、壬生直広主については、相模国源融相模国府の猿投産緑釉陶器の流通に係わる人物…9世紀中葉~後半の相模国の実質的支配者…ではないかと、個人的に妄想し続けてきた人物だ。
 その根拠の一つが、この貞観元年〔859年〕、広主に国司級とも言える内位”従五位下”の官位が与えられていることである。またこれ以降、相模国では862年に大住郡の荒廃田42町が冷然院に、865年には大住郡・愛甲郡の空閑地400町〔内、開田15町〕が淳和院に充てられている。9世紀中葉~後半の相模国府は、嵯峨源氏仁明源氏国司たちと郡大領壬生氏とを中心に展開したのではないかと想像している。)
 
 仮に、「大上」墨書土器3点が、相模国の「大上郷」と(さらには「大神朝臣仲麻呂」などとも)係わるものであるならば、国府域からは外れる「大上郷」や、高林寺遺跡第8地点という国府域東端の遺跡の9世紀中葉~後半における性格を考える材料の一つになるのではないだろうか。
 また、相模国庁に程近い大会原遺跡第4地点で「大上」墨書土器が出土したことも、相模国庁廃絶後の周辺地域のあり方にも、どこかで係わってくるのかもしれない。こうして、古代道について考え迷うなかで、さらにまた特色ある周辺遺跡の遺物のあり方にも思いが飛び散ってしまう。一向に進むべき道が開けてこない。