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私の第三十四夜をつづります。

歌人相模の初瀬参詣ルート探訪の続き⑥:「竹渕」(たかふち)、そして四天王寺

 寛弘期に天王寺連作9首を詠んだ歌人相模は、実際に天王寺を参詣したのだろうか。もし参詣したのであれば、その機会は、下に示した初瀬参詣連作7首を詠んだ旅の帰路上ではなかったか? 
 そして、その時期については、『相模集全釈』の「年表」を参考に、次のように「1027年冬(万寿4年10月頃)?」、参詣路(帰路)については下図のように推定してきた。

1025年秋 藤原定頼への思いが強まる(8390の贈答歌)
1026年冬 大江公資が離れ去る(100101の贈答歌、9799の贈答歌もこの頃か)
1027年冬 この頃、初瀬参詣か(104~110の物詣歌)
1030年頃 「異本相模集」成立か
1035年夏 「賀陽院水閣歌合」出詠(594の“五月雨”の歌)

〔 初瀬参詣の連作7首(『相模集全釈』から引用)〕
神な月 初瀬に詣づるに、稲荷の しものやしろにて みてぐら奉る
104 ことさらに 祈りをらむ 稲荷山 けふは絶えせぬ 杉と見るらむ 
あとむら といふ所に宿りて、鹿鳴く
105 鹿のねに 草のいほりも 露けくて 枕ながるる あとむらの里 
すがたの池にて
106 行く人の すがたの池の 影見れば 浅きぞ そこの しるしなりける 
良因といふ寺にて、ふるの社のもみぢを見る
107 よしみねの 寺にきてこそ ちはやぶる ふるの社の もみぢをば見れ 
楢の鳥居の前なる木どもに かけたるもの おほかり
108 なにならむ 楢のやしろの榊には ゆふとはみえぬ ものぞおほかる 
   まで着きて、坊の前に谷ふかく、もみぢおほかるを、「いづくぞ」と問へば、「鍋倉山」といふ
109 春ならで いろもゆばかり こがるるは 鍋倉山の たき木なりけり 
竹淵(たかふち)といふ所あり
110 旅人は こぬ日ありとも たかふちの 山のきぎすは のどけからじな                      
 

この図は、110の歌に詠まれた「竹渕」を、現在の八尾市竹渕付近と想定した場合の推定ルートで、もし「竹渕」が別の場所であるのならば、この推定ルートは成り立たない。もちろん、歌人相模が初瀬参詣の帰路のなかで天王寺参詣も果たしたのではないか…といった想定も、まさに妄想そのものに終わることになる。
前回の奈良の旅で105~108の歌の地を訪ね、今回の大阪の旅では110の「竹渕」の地から、105の「あとむら」の地まで、推定ルートを逆にたどるように、現在の八尾市の範囲内を歩いてみた。
11世紀の歌人相模の姿を追いながら、見知らぬ町を歩く。古い道や寺社に平安時代よすがを探す。いつものようにバイアスのかかった旅…と自覚しつつ、ささやかな記録を続けようと思う。
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〔1〕加美駅から竹渕神社まで、平野川をさかのぼるように、国道25号を歩く。

イメージ 1
加美駅から国道25号に出て、最初に出会った道標:
「すぐ左」とあるのは…? もともと置かれていた場所を離れてしまい、目立たぬよう、身を隠しているようなたたずまい。

イメージ 2
平野川にかかる「たけふちばし」:
国道25号と平行する平野川沿いの道に出ると、川の流れの先(東の方向)に山の姿。
平安時代大和川の流れをたどることはできないけれど、現在の平野川をさかのぼる先には、高安山信貴山の変わらぬ姿…たぶん…がある。何だかほっとしたことを思い出す。