110 旅人は こぬ日ありとも たかふちの 山のきぎすは のどけからじな
(『相模集全釈』から)
今回の旅は、歌人相模の初瀬参詣7首をしめくくる110の歌の場所を訪ねる旅でもあった。
◇「竹渕」とはどこなのか?
◇「竹渕」が八尾市竹渕である可能性はあるのか?
まず2015年夏の時点では、往路・復路のルートの想定も迷っていて、次のような「竹渕」案(①・②・③)があった。
________________________________________
~2015年夏時点の「竹渕」案~
◇山城国久世郡竹淵郷か?
①八幡市の男山西麓付近 (冨山房『大日本地名辞書』を参考)
◇河内国渋川郡竹淵郷か?
________________________________________
~2015年夏時点の往路・復路ルート案(再掲)~
________________________________________
その後、往路は陸路、復路は淀川ルートとし、「竹渕」は復路上の八尾市竹渕付近に絞りこんだ。そして、そのルートを探訪することにした。
その際、なぜ、想定ルートの往路・復路上でも通る 八幡市の男山西麓付近 を選ばずに、八尾市竹淵付近 に絞ったかといえば、
110 旅人は こぬ日ありとも たかふちの 山のきぎすは のどけからじな の歌から、はるかな旅路で通り過ぎた”さびしいような、それでいてのんびりとした里の風景”が浮かび上がったからだ。
つまり、もし「竹渕」が、次のように八幡市の男山西麓付近(橋本の”竹の下道”)であるならば、まさに交通の要衝にあたり、人の行き交いも頻繁で、「旅人のこぬ日」は無かったのではないか?と感じたのだ。
________________________________________
(冨山房『大日本地名辞書』から引用)
「竹渕郷 和名抄 久世郡竹渕郷、訓 多加不知。竹は岳にして淵は縁の義か、今八幡町ならん、男山鳩峰は其岳なるべし、古歌に橋本(男山の西麓)を竹の下道とよめり。
綱手引く 竹の下道 きりこめて 船路にまよふ よどのかわはぎし 後京極摂政
(後略)
________________________________________
以上のような成り行きで、「竹渕」の名を今にとどめる八尾市竹渕の「竹渕神社」に行き着くことになった。
現・平野川を渡った竹渕橋から高安山や信貴山が望めたこと(「たかふちの 山のきぎす」とは、”高安山“ではなかったろうか…という妄想も生まれる)、神社が湧水地に立地していることなどは、110の歌が詠まれた地域一帯のイメージとして、矛盾はないように感じた。
竹渕神社①左手に、池(かつての周濠の名残りだろうか?)が残っている。
「竹渕神社」②:由来からは、当地域がかつて水の豊かな場所であったことが想像された。
竹渕神社③:境内は想像以上に広く、かつての神域の広がりを偲ばせるものだった。
竹渕神社④:神社の西側に残る池では釣人の姿があった。
竹渕神社からは北東600mほどの地点に立つ。「八尾市竹渕」地域は、八尾市域から大阪市平野区域へと飛び地のように突出する形を示すが、なぜ、このような形に飛び出しているのだろうか?と考えさせるような、象徴的な位置だ。