enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

歌人相模の初瀬参詣ルートを探して:竜田道⑤

 「竜田道」について、『日本歴史地名辞典 大阪府Ⅱ』(平凡社 1986年)には、次のような記述がある。
_________________________________________
 「…(前略)大和の竜田本宮(現 奈良県三郷町の竜田大社)から西の山竜田山を越え、亀瀬の峡谷を抜けて河内へ出、石川を渡ると道は大きく二つに分れる。一本は大津道(長尾街道)となって真西の堺・住吉方面へ進む。一方、北西方向、大和川(長瀬川)沿いに進むと、これは「渋河路」といって難波宮(現 東区)へ向かうことになる。…(中略)
竜田山は現在の三郷町立野から柏原市 雁多尾畑 かりんどおばた ・峠にかけての山をさすと考えられる。なお古代の竜田道が近世の亀瀬越竜田道と同じであったかどうかには異論がある。峠を通らずに雁多尾畑を通るとか、青谷あおたに から国分こくぶ へ川を渡らずに安堂の方へ抜けるなどの道が考えられている(柏原市史)。…(後略)…」
_________________________________________
 この記述からも、「竜田道」が時代によっても、また考証する人によっても、さまざまに想定されていることがわかる。
 
【註】この記述の後半で示されている「青谷から国分へ川を渡らずに安堂の方へ抜ける」道筋は、「夏目茶屋の渡し」ルートだろうか?と理解している。
このルートの「夏目茶屋の渡し」地点は、大和川右岸の青谷遺跡(竹原井頓宮推定地にあたり、流路がS字型に蛇行する地点)付近と対岸(大和川左岸)の国分(国分寺国分尼寺比定地)付近とを結ぶ交通の要衝でもあったらしい。
 (仮に歌人相模が、淀川から船で遡って帰京するという道筋を選ばずに、再び往路と同じ東高野街道を通って帰ろうとしたならば、この地点(近世の「夏目茶屋の渡し」の地点)で大和川右岸に渡る可能性も考えられるかもしれない…妄想はややこしくなるばかり…。)
 
 なお、私が想定する歌人相模の初瀬参詣ルートでは、往路で採った「竜田道」を、帰路では通らないと推定している。
 それは、「竹淵 たかふち」を”八尾市竹渕”と推定する場合、大和川左岸側の道筋をたどるのが自然だと思われるから。
 すなわち、初瀬からの帰路については、「竹淵」までの最短コースとして、下図のように、ひたすら北西に進路(葛下斜向路・渋河路)を取って天王寺四天王寺〕→ 難波津〔熊河岸(大渡)〕へ向かうように想定している。まさに、何の根拠も示すことができない”砂上の砂城”のような想定に過ぎないのだけれど(心もとなく、そして楽しい想定でもある)。
 
再掲図(2018年6月18日「歌人相模が「竹淵」を目指した道(1) 」の地図)
 
下図の下に、2018年6月18日時点での【訂正】も再掲しておきたい。
(下図を作った際に「渋河道」の存在を失念したことを改めて反省するためにも。)
イメージ 1
 
【訂正】
このあと、上の図では「渋河道」を記載し忘れ、L字状に四天王寺に向かうようなルートになっていることに気がつきました(やれやれ…が続きます)。
正しくは「竹淵」から四天王寺方面へ直線的な最短ルート(渋河道)を採ることを想定しています。