”歌人相模が神無月に「竜田越え」をしたとすれば、なぜその紅葉の歌を詠み残さなかったのか?”
前回、この点について、『歌人相模は、敢えて”歌枕”とは無縁の、人知れぬ山里で詠んだ歌を残そうとしたのではないか』…そのような想像を書いた。
その後、この疑問に関して、すでにまとめのようなものを書いていたことが分かった。
(自分が一生懸命書き留めたことすら、すっかり忘れていることにひどく気落ちした。)
「在原業平が屏風絵に即して詠んだとされる「ちはやぶる かみよもきかず たつたがは からくれなゐに みづくくるとは」の歌を念頭に置いて、そうした仮想(屏風絵)の歌などではなく、実景をふまえた歌として、敢えて「よしみねの 寺にきてこそ ちはやぶる ふるの社の もみぢをば見れ」と詠んだのではないだろうか」 としている。
この過去のまとめも、やはり穿ちすぎ…業平の歌まで引き合いに出している点など…と思うけれど、「敢えて、竜田越えでの紅葉の歌を残さなかった」という歌人相模の姿勢を想像している(こじつけている?)点は、今も変わっていない。
過去のまとめを再掲して、自分の”試行(思考)錯誤”をおさらいすることにしたく(やれやれ)。
___________________________________
歌人相模の初瀬参詣ルートの模索…その試行(思考)錯誤をひきずり、「竜田山」の歌語を気にかけながら『新編国歌大観』の「素性法師集」を眺めていると、次の歌があった。
たつたやま こゆるほどに しぐれふる
57 あめふらば もみぢのかげに かくれつつ たつたのやまに やどりはてなむ
(「相模集」)
__________________________________
調べてみると、素性法師の57の歌は、実際に竜田山を越えて詠んだ歌であることが分かった。さらに具体的に、宇多上皇の宮滝御幸の一行とともに、大和国(宮滝)から摂津国(住吉社)に向かおうとして、898年10月28日、河内国(竜田山)を越えた際に詠んだ歌、と推定できることも分かった(『扶桑略紀』の「宮滝御幸記」など、詳細な記録が残っていることで、57の「たつたやま」の歌がそのまま現実のイメージを伴って立ち現われてくるように感じた)。
あたかも、在原業平が屏風絵に即して詠んだとされる「ちはやぶる かみよもきかず たつたがは からくれなゐに みづくくるとは」の歌を念頭に置いて、そうした仮想(屏風絵)の歌などではなく、実景をふまえた歌として、敢えて「よしみねの 寺にきてこそ ちはやぶる ふるの社の もみぢをば見れ」と詠んだのではないだろうか、との臆測が浮かんでしまう。
_________________________________________
小さな地蔵堂:
扉を開けて堂内を拝見すると、おむすび形に近い大きな自然石が三つ、並んで据えられていた。
その三体の”お地蔵様”たちには赤と黄の2枚の前垂れが掛けられ、それぞれの前に、季節の新鮮な花が供えられていた。
そして、「安堂」の地は、東高野街道と竜田道と渋河道(推定)とが出会う交通の要衝地だ。
また、この「安堂あんどう」の地名は、その歴史的な由来は不明とはいえ、「あとむら」・・・歌人相模が初瀬参詣7首を詠んだ地の一つ(現在の生駒郡安堵町を想定)…の「安堵あんど」とも似通う地名であることが、気になっている。
さて、「安堂」の地を「あとむら」に当てる可能性が生じるのだろうか?(それとも、思い入れの強さによる気がかりに過ぎないのだろうか?)。