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私の第三十四夜をつづります。

歌人相模の初瀬参詣ルートを探して:竜田道④

 ”歌人相模が神無月に「竜田越え」をしたとすれば、なぜその紅葉の歌を詠み残さなかったのか?”
 
 前回、この点について、『歌人相模は、敢えて”歌枕”とは無縁の、人知れぬ山里で詠んだ歌を残そうとしたのではないか』…そのような想像を書いた。
 その後、この疑問に関して、すでにまとめのようなものを書いていたことが分かった。
(自分が一生懸命書き留めたことすら、すっかり忘れていることにひどく気落ちした。)
 
 そのまとめ【歌人相模の初瀬参詣ルート補記①:素性法師(良因)の「たつたやま」越え(2015年8月24日)】では、
 在原業平が屏風絵に即して詠んだとされる「ちはやぶる かみよもきかず たつたがは からくれなゐに みづくくるとは」の歌を念頭に置いて、そうした仮想(屏風絵)の歌などではなく、実景をふまえた歌として、敢えて「よしみねの 寺にきてこそ ちはやぶる ふるの社の もみぢをば見れ」と詠んだのではないだろうか」 としている。
 この過去のまとめも、やはり穿ちすぎ…業平の歌まで引き合いに出している点など…と思うけれど、「敢えて、竜田越えでの紅葉の歌を残さなかった」という歌人相模の姿勢を想像している(こじつけている?)点は、今も変わっていない。
 過去のまとめを再掲して、自分の”試行(思考)錯誤”をおさらいすることにしたく(やれやれ)。
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 歌人相模の初瀬参詣ルートの模索…その試行(思考)錯誤をひきずり、「竜田山」の歌語を気にかけながら『新編国歌大観』の「素性法師集」を眺めていると、次の歌があった。

    たつたやま こゆるほどに  しぐれふる

 57 あめふらば もみぢのかげに かくれつつ たつたのやまに やどりはてな

                                                  (「素性法師集」) 

 素性法師は、10世紀前後、天理市布留町に所在した寺に住していたらしい。11世紀の歌人相模が神無月に初瀬参詣で立ち寄った「良因といふ寺」(「よしみねの寺」)に住していた人、ということになるだろうか。 

    良因といふ寺にて、ふるの社のもみぢを見る

 107 よしみねの 寺にきてこそ ちはやぶる ふるの社の もみぢをば見れ

                                                   (「相模集」)
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 調べてみると、素性法師57の歌は、実際に竜田山を越えて詠んだ歌であることが分かった。さらに具体的に、宇多上皇の宮滝御幸の一行とともに、大和国(宮滝)から摂津国(住吉社)に向かおうとして、8981028日、河内国(竜田山)を越えた際に詠んだ歌、と推定できることも分かった(『扶桑略紀』の「宮滝御幸記」など、詳細な記録が残っていることで、57の「たつたやま」の歌がそのまま現実のイメージを伴って立ち現われてくるように感じた)。
 また、この素性法師の「たつたやま」越えが、偶然にも歌人相模と同じ10月という季節であることが気にかかった。
 もし歌人相模が初瀬参詣で竜田山を越えるルートを採ったのであれば、なぜ、素性法師と同じように竜田山の紅葉を詠むことをしなかったのか…相模は竜田山の紅葉を見ていなかったということなのだろうか…そんなことを思った。
 すなわち、歌人相模の初瀬参詣7首のなかで、10月の紅葉を詠んだ歌は「良因といふ寺」での107、そして初瀬の坊の前で詠んだ109であって、景勝地であった竜田山を詠んだ歌はないからだ。しかも、107の歌では、「よしみねの寺にきてこそ…もみぢをば見れ」と強調している。

あたかも、在原業平が屏風絵に即して詠んだとされる「ちはやぶる かみよもきかず たつたがは からくれなゐに みづくくるとは」の歌を念頭に置いて、そうした仮想(屏風絵)の歌などではなく、実景をふまえた歌として、敢えて「よしみねの 寺にきてこそ ちはやぶる ふるの社の もみぢをば見れ」と詠んだのではないだろうか、との臆測が浮かんでしまう。
歌人相模は初瀬参詣に際し、景勝地竜田山を越えたのか、越えなかったのか…。また、振り出しに戻ってしまったけれども、素性法師の「たつたやま」越えの歌を、10世紀前後の、大和国河内国摂津国とを結ぶ竜田山越えルートの一つの事例として確認しておこうと思う。(後略)
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 なお、おさらいしたついでに、素性法師が「ふるのやしろ」を詠んだ次の歌(『素性法師集』異本独自歌)を書き留めておきたい。  
     「 みなひとの むかしかたりに なりゆくに ふるのやしろの みをいかにせむ  」 

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小さな地蔵堂
扉を開けて堂内を拝見すると、おむすび形に近い大きな自然石が三つ、並んで据えられていた。
その三体の”お地蔵様”たちには赤と黄の2枚の前垂れが掛けられ、それぞれの前に、季節の新鮮な花が供えられていた。
地図を確かめると、この地蔵堂から逆に西に下れば、「安堂遺跡」を経て、近鉄安堂駅へと向かうようだった。
(旅の前に読んだ朝日新聞記事【木簡の古都学40】には、「安堂遺跡」について、”孝謙天皇が泊まった”智識寺南行宮跡”の可能性がある、と書かれていた。)
そして、「安堂」の地は、東高野街道と竜田道と渋河道(推定)とが出会う交通の要衝地だ。
つまり、歌人相模が東高野街道を南下して初瀬に向かったのだとすれば、この「安堂」を経由しているはずなのだった。
また、この「安堂あんどう」の地名は、その歴史的な由来は不明とはいえ、「あとむら」・・・歌人相模が初瀬参詣7首を詠んだ地の一つ(現在の生駒郡安堵町を想定)…の「安堵あんど」とも似通う地名であることが、気になっている。
さて、「安堂」の地を「あとむら」に当てる可能性が生じるのだろうか?(それとも、思い入れの強さによる気がかりに過ぎないのだろうか?)。