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私の第三十四夜をつづります。

歌人相模が「竹淵」を目指した道(1)

 今からおよそ一千年前…おそらく万寿41027)年頃歌人相模は“神な月(10月)”に初瀬参詣を思い立った。そして、その旅で7首の歌を詠んだ。
 6月初旬の私の旅では、その連作7首(歌番号104~110)のうち、109と110の歌が詠まれた道筋を追いかけてみた。
 
 109の歌については、歌人相模が長谷寺坊から見た「鍋倉山」が、現在の与喜山(天神山)で良いのかどうか、を確かめようと思った。
 結論としては、現在の与喜山の紅葉はどのようなものなのか?という疑問は残りつつ、まずは与喜山で良いのでは?と感じることができた。
 
 110の歌については、次の2点について何かしらの情報が得られれば、と思っていた。
 ①「竹淵」はどこなのか?
 ②長谷寺から「竹淵」までどのようなルートを辿って帰京したのか?
 どちらも、結論を出せるはずもない問いかけだった。それでも、想定可能なルートを絞り込む材料がほしかった。
 
 現在、自分なりの結論として、次のような想定に至り、改めて拙い想定ルート図を作り、まとめてみた。 
 ①の「竹淵」については、これまでの「八尾市竹渕」の想定を維持
 ②のルートについては、次のような想定ルートに絞り込む
   *長谷寺からは初瀬川沿いに「横大路」ルートに至り西進する
   *いずれかの地点(現在の「大和八木駅」付近?)で北西に向かう最短ルートを採る
    (「葛下斜向道」というルートが11世紀に機能していたならば、この道筋が最短になり得る?)
   *「長尾街道」ルートで「田尻峠」を越え、大和国から河内国に入る
   *「河内国府」から「八尾街道」ルートで渋河道(推定)に入り「竹淵」に向かう
   *「難波大道」ルートを北上して「熊河岸(大渡)」に向かい、淀川を船でのぼって帰京する
    (その途中で、歌人相模は「四天王寺」を参詣した可能性も?)

イメージ 1

【追記・訂正】
このあと、上の図では「渋河道」を記載し忘れ、L字状に四天王寺に向かうようなルートになっていることに気がつきました(やれやれ…が続きます)。
しくは「竹淵」から四天王寺方面へ直線的な最短ルート(渋河道)を採ることを想定しています。
これまで想定していた図(2015年5月27日掲載)では、この最短ルート(渋河道)を示していますので、以下、再掲しました。
なお、下の図では、長谷寺から「竹淵」に向かうルートとして、往路を引き返し、再び「竜田道」を通ることになっています。今回、この迂回路に疑問を持ち、想定から外し、「葛下斜向道」に相当するルートに絞りました。

<2015年7月時点での想定ルート図>
イメージ 2
歌人相模の初瀬参詣:参詣後の想定ルート図(歌番号109・110の道筋について)】

 この結論によって、帰路についてこれまで想定していた次の①~③のルートのうち、①・②の迂遠な「竜田道」ルートの可能性は消えて、③に近似した最短ルートに絞り込んだことになる。
 
 ①長谷寺からは、往路のコースをそのまま逆戻りし、新たに柏原から竹渕を経て四天王寺へ、という龍田越えのコース
 ②長谷寺 → 桜井から西進 → 大和高田から北上して大和川を渡河 → 安堵町に戻り龍田越え → 新たに柏原から竹渕を経て四天王寺へ、という龍田越えのコース
 長谷寺 → 桜井 → 大和高田 → 香芝(関屋越え・田尻越え) → 新たに柏原から竹渕を経て四天王寺へ、という龍田越えをしないコース

 以上、少ない情報量と曖昧な理解力のうえにたどり着いた仮説ではあるけれど、一つの段階としてまとめておく。