旅の目的を、”自分の眼と足で確かめること”としながら、そこにはどうしても、自分につごうの良い材料を求める…というバイアスがかかってしまうようだ。
110 旅人は こぬ日ありとも たかふちの 山のきぎすは のどけからじな
そして、この歌が「旅人は」の言葉で始まっていることに、自然な共感を覚えた。
「旅人は」 と歌い始めたのは、旅が一区切りついた(旅の目的をほぼ果たした)時だったのだろう…と、つい、自分自身の思いが重なったのだ(この「竹渕橋」の場所で、私も、自分の旅の目的をほぼ果たしたような気持ちになったのだった)。
「旅人は」の言葉で、歌人相模は自身の”初瀬参詣の旅”をふりかえっている。その安堵感に似た思いが伝わってくる。そして、歌人相模が安堵感を感じた場所は、日常生活の場である京に近い地点…すなわち、「八幡市の男山西麓付近」…ではないだろうとも感じた。
さらに、初瀬参詣の旅をふりかえる歌の場所として、まだ旅がすべて終わったわけではない「八尾市竹淵付近」という地点を想定してよいのだろうと感じた。つまり、110の歌は、どうしても”旅先のなか”でなくてはならない、と強く感じるものがあったのだ。
(私の旅の場合でも”京都駅”や”平塚駅”で、「旅人は…」という感慨をもってふりかえったりはしない…たぶん。)
竹渕神社をあとにして、”竜田越え奈良街道”に重なるような国道25号方面へと戻りながら、私のおもな関心は、そのルート周辺に平安時代の11世紀の痕跡は残っているのだろうか?というものに移っていった。
太子堂へと南東に向かう古い道(亀井町)
跡部神社(八尾市亀井町)
それにしても、今に残る斑鳩の寺々と太子堂・四天王寺との間に横たわる、とても大きな”印象”の違いが気になった。それは、私だけが感じる”印象”の違いなのだろうか。そもそも、歌人相模が生きた時代には、それらはどのような”印象”だったのだろうか。