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私の第三十四夜をつづります。

歌人相模の初瀬参詣ルート探訪の続き⑧:「竹渕」(たかふち)、そして四天王寺

 旅の目的を、”自分の眼と足で確かめること”としながら、そこにはどうしても、自分につごうの良い材料を求める…というバイアスがかかってしまうようだ。
 
 今回の旅のなかで、平野川に架かる小さな「竹渕橋」から高安山を望みながら、歌人相模の初瀬参詣連作7首の最後の歌を思い浮かべた。
 
 110 旅人は こぬ日ありとも たかふちの 山のきぎすは のどけからじな 

 そして、この歌が「旅人は」の言葉で始まっていることに、自然な共感を覚えた。
 「旅人は」 と歌い始めたのは、旅が一区切りついた(旅の目的をほぼ果たした)時だったのだろう…と、つい、自分自身の思いが重なったのだ(この「竹渕橋」の場所で、私も、自分の旅の目的をほぼ果たしたような気持ちになったのだった)。
 「旅人は」の言葉で、歌人相模は自身の”初瀬参詣の旅”をふりかえっている。その安堵感に似た思いが伝わってくる。そして、歌人相模が安堵感を感じた場所は、日常生活の場である京に近い地点…すなわち、「八幡市の男山西麓付近」…ではないだろうとも感じた。
 さらに、初瀬参詣の旅をふりかえる歌の場所として、まだ旅がすべて終わったわけではない「八尾市竹淵付近」という地点を想定してよいのだろうと感じた。つまり、110の歌は、どうしても”旅先のなか”でなくてはならない、と強く感じるものがあったのだ。
(私の旅の場合でも”京都駅”や”平塚駅”で、「旅人は…」という感慨をもってふりかえったりはしない…たぶん。)

 竹渕神社をあとにして、”竜田越え奈良街道”に重なるような国道25号方面へと戻りながら、私のおもな関心は、そのルート周辺に平安時代の11世紀の痕跡は残っているのだろうか?というものに移っていった。

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太子堂へと南東に向かう古い道(亀井町)

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跡部神社(八尾市亀井町)

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跡部地蔵尊のたっぷりとして優しい表情(八尾市跡部本町):1775年からの年月を経た今もなお、通り過がりの私を、隔てなく迎えてくれた。

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太子堂〔大聖勝軍寺〕(八尾市太子堂):
 今回、”竜田越え奈良街道”を旅する人々にとって、斑鳩から太子堂を経て四天王寺へとたどる道筋は、常に聖徳太子大和川という大きな存在を意識させるものだったろうと感じた。
 それにしても、今に残る斑鳩の寺々と太子堂四天王寺との間に横たわる、とても大きな”印象”の違いが気になった。それは、私だけが感じる”印象”の違いなのだろうか。そもそも、歌人相模が生きた時代には、それらはどのような”印象”だったのだろうか。