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私の第三十四夜をつづります。

歌人相模の初瀬参詣ルート探訪の続き⑩:「竹渕」(たかふち)、そして四天王寺

 6月が終わってゆく今、ようやく、旅のまとめの終点にたどり着く。
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 八尾駅南の細く古い道から国道25号に戻ったあと、志紀駅方向に向かう。途中の「天王寺屋地蔵」の地点で、ほとんど当てずっぽうに細い道を左に入ってみる。”中田遺跡”の碑が立つ公園に立ち寄るためだった。旅の前に”中田遺跡”の情報として、その碑文内容は読んでいた。

「中田を中心に東は刑部、西は別宮、北は小阪合、南は八尾木の範囲にひろがる広大な集落遺跡である。 弥生時代後期から人々が住みはじめ、古墳時代には大集落に発展している。奈良時代は「西の京」造営と関係があるのか平安時代中期の頃までの遺構、遺物の埋蔵が見られない。鎌倉時代に入ると寺を中心として再び大集落が復活し、室町時代末期まで繁栄している。…」 
 
 道草とも言うべき”中田遺跡”には、歌人相模の時代の痕跡が抜け落ちていることは分かっていたけれど、こうした旧大和川沿いの地域の遺跡の地点から、どのような景観が眼に入るのだろう…という興味があった。そこには、やはり地図上やストリートビューでは味わうことができない、何かがあるはずなのだ。

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天王寺地蔵尊(八尾市天王寺屋):
 左手の碑には「…永仁五年(一二九七)鎌倉時代末期の造立と考えられ、市内では最古の地蔵石仏である。…」とあった。

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高安山を間近に見る(八尾市八尾木北):
 家並みの隙間から覗き込むような見え方ではあったけれど、高安山にかなり迫ったという感慨を覚えた。歌人相模も、あの”緑の屏風”のような山並みを眼にして、初瀬参詣の旅の終わりを感じたことだろうと、再び思い入れを深くした。

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中田遺跡の説明版(八尾市中田の中田第一公園内):
 旧大和川右岸の”龍華寺跡”からは東へ1km強の地点に位置する遺跡。平安時代後期末~鎌倉時代初頭(12C末~13C初頭)には居住域となったようだ。
 今回訪ねた八尾市には、私がわずかに知り得た平安時代に係わる遺跡として、旧大和川右岸側では八尾駅近くの”渋川廃寺”、そして旧大和川左岸側では現・平野川筋の”太子堂遺跡”・”老原遺跡”・”北木の本二丁目遺跡”・”木の本遺跡”などがある。
 この限りでは、旧大和川左岸側に、より多くの平安時代の生活の痕跡が展開しているように見えてくる。歌人相模が詠んだ「竹渕」は、旧大和川左岸側の八尾市竹渕…というバイアスのかかった眼で探しているからだろうか。

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東の空に連なる高安山の山並み(中田から東弓削へ向かう道で):
 いよいよ、高安山が眼の前に迫ってくる。
 南北に連なる山並みの左手4~5kmほどの「鐘の鳴る展望台」では、タカの渡りが観測されているようだ。「高安山」の”タカ”には、”鷹”の意味合いが含まれているのだろうか…バイアスの度合いがさらに増してゆく。

 110 旅人は こぬ日ありとも たかふちの 山のきぎすは のどけからじな 

 11世紀前半、神無月に初瀬参詣を果たした歌人相模が、もし…もし、八尾市竹渕の地で、生駒山から信貴山高安山にかけての山並みを仰ぎ、現代と同じようなタカの渡りの光景に出逢ったとすれば、110 の歌は、自然に口をついて生まれた歌であったのだろう…そんなことを思った。

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弓削寺跡の調査地点(八尾市東弓削、恩智川・玉串川・楠根川・長瀬川の合流地点):
 ”中田遺跡”から志紀駅に向かう途中で、”弓削(由義)寺跡”を訪ねた。第一印象からは、伽藍地にふさわしい立地として思い描くことはできない。
 ただ、東の恩智川や西の長瀬川など、幾筋かの南北流に挟まれながらも、おそらくは安定した地域だったのだろうとも想像した。
 古代の夢の跡のような”弓削寺跡”の地に立って連想する事柄として、道鏡称徳天皇のほかに、大江公資が弓削仲宣の孫にあたる、ということがあった。大江公資の祖父・仲宣と弓削氏との間に多少の縁があったのだとすれば、どのような縁だったのだろう。

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式内河内大社弓削神社(八尾市東弓削):
 八尾市の旅の最後の地点。地図上では志紀駅まではごく近い。それなのに道に迷った。旅とは迷うことと見つけたり…こうして、四天王寺から竹渕への探訪は終わった。