enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

思考の筋力と言葉

 昨夕、前文科事務次官の会見を聞いた。無駄の無い平易な言葉が積み重ねられ、語り手が捉えている”形”が、聞いている私にも具体的なイメージとして伝わる…そのような会見だったと思う。
 
 その声と語り方…どこかしら、養老孟司氏の声と語り方を想い出してしまうような*…の先に、私などが与り知らない世界の存在を予感させた。一言も聞きのがすまいと、つい”耳”を奪われてしまう。
 また、その声と語り方のリズムからは、鍛錬された思考の筋力が伝わってくるようにも感じた。
 望んでも私には備わっていない、そういう思考の筋力なのだと思う。
(私に人一倍備わっていると思えるのは腕の筋力であって、それが役に立つのは荷物を持つ時だけ…。)

 言葉とは、鍛錬された思考の筋力のもとに使われることで、その意味を有効に発するのだと実感した会見だった。
 語られる言葉というものは、やはり意味を持たなくては意味が無いのだと思った。

 *声と語り方が似ていると思いつつ、一方で、これまで見聞きしてきた養老氏の言葉は、私の理解が及ばないことにも思い及ぶ。
 氏の思考の世界が自己完結していて、他者に伝えるための言葉の手続きが端折られているからだろうか。それとも、自己韜晦の煙幕が張られているのだろうか。理解しようとする側の私に、もやもやとしたもの…”形”が見たいのに見えてこないという…が残ることが多かった。
  つまり、似ているという印象は、今思えば、やはり声と語り方のトーンだけなのだろうと思う。