竹渕神社から国道25号に戻り、亀井町で古道に入り、再び国道25号に戻る。太子堂(大聖勝軍寺)経て、植松町で再び細く古い道に入ってゆく。そのゆるやかな波状の古い道筋は、かつて大和川本流であったとされる平野川の蛇行跡をなぞっているかのように思える。
そして、道筋の要所要所には道標が残されていて、その姿を見るたびにホッとした気持ちになるのだった。(もしも、”歌人相模が通った道”という道標が残っていたのなら、どんなにか嬉しいことだろう…。)
「植松町七丁目道標」:
これまで、歌人相模の初瀬参詣ルートの復路案として、次の①・②を想定していた。
しか、「植松町七丁目道標」の解説から、①・②のほかに、次のような新たな③のルートの可能性が浮かんだ。
机上では、大和高田から直線的に(一気に)柏原に向かう③の斜向ルートは、竹渕~四天王寺への最短ルートのように思えてくる。
実際に歩くことでルートをしぼり込めれば…と思っていたのに、ますます選択肢が広がってゆくばかり。
「制札場跡」の石標が建つ古道の交差点(西から):
左手の法覚寺の角を北に進めば渋川神社・八尾駅へ。「制札場跡」の石標を右に見ながら、まっすぐ道なりに南東に進めば、次の道標(八尾街道との交点)に行き着くことになる。
「制札場跡」の石標:長瀬川と平野川にはさまれたこの植松町一帯は、
江戸時代には地域の中心地だったのだろう。
渋川神社とクスノキ:現在の渋川神社のすぐ北を流れる長瀬川を渡り、北東に進むと推定「龍華寺跡」(安中小学校内)に行き当たる。訪ねた日は休日で、見学はかなわなかった。
長瀬川に架かる天神橋(北から):
推定「龍華寺跡」(安中小学校内)を経て、渋川神社に戻ろうとして、再び長瀬川を渡る。
ちなみに、推定「龍華寺跡」の東約800mの地点(渋川天神社付近)は「渋川廃寺」推定地とされ、発掘調査が行われている(『渋川廃寺』 2004年 (財)八尾市文化財調査研究会)。
その第2次調査で、2~3区第3面のピットSP348から、11世紀前半(?)とされる土師器大皿が出土している。ピットの遺物の大半は11世紀後半のようではあるけれど、歌人相模の時代の痕跡がかすかに残っていることに励まされる。
寛政7(1795)年に建てられた道標「左 八尾 右 柏原」:八尾街道と交点に当たる。この古道が、江戸時代には人々の往き来が盛んであったことを思う。やはり、平安時代11世紀にまでさかのぼる痕跡に出会うことはむずかしい…とも思う。
道標「左 八尾街道 右 奈良街道」:古道から国道25号に戻る地点に立つ。今回の旅のなかでは最後の道標だった。