enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

歌人相模が見た「鍋倉山」

 6月初旬の旅…久しぶりに歌人相模とともに歩きながら、とりとめのない問いかけが浮かんでは消えた。
   『旅のなかで、貴方の思いは誰に(何に)向かっていたのですか?』
   『旅を通じて、貴方の心に何か得るものがありましたか?』
   『貴方の旅はどのような道筋をたどったのですか?』
 さまざまな問いかけのなかで、私が探ることができるものは、その旅の道筋だけなのだった。
 これまでも、おぼつかない想定のもと、歌人相模の初瀬参詣ルートを試行(思考)錯誤しながら歩いてきた。
 今回の旅では、初瀬参詣7首(歌番号104~110)のうち、6番目・7番目にあたる109・110の歌の跡を追いかけた。
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 ~『相模集全釈』(風間書房 1991年)から引用~
 
   まで(詣で)着きて、坊の前に谷ふかく、もみぢおほかるを、「いづくぞ」と問へば、「鍋倉山」といふ
109 春ならで いろもゆばかり こがるるは 鍋倉山の たき木なりけり
 
    竹淵(たかふち)といふ所あり
110 旅人は こぬ日ありとも たかふちの やまのきぎすは のどけからじな
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 私の旅の目的の一つは、109の歌に詠まれた「鍋倉山」を、長谷寺の東に位置する与喜山(天神山)と想定してよいのかどうか、を確かめることだった。
 旅を終えての結論は、まずはその想定で良いのではないだろうか?ということになった。
 詞書にある「坊の前に谷ふかく」から位置関係を類推し、「鍋(堝)倉神社」(延喜式内社」)の鎮座地に関する諸説を踏まえ、実際に長谷寺の前に立つことで至った結論だった。
 ただ、一点気になったのは、『秋になって、この与喜山は果たして「いろもゆばかり こがるる」と歌に詠むほどの紅葉になるのだろうか?』という疑問が浮かんだことだった(仮に秋に再訪して紅葉が見られなかったとしても、11世紀から植生が遷移し続けた結果かもしれない…などと自分に言い訳してみる)。
 こうして、はるばる訪れた長谷寺を参詣する時間も無く、初瀬川を渡り、与貴山を登り降りしながら、やや曖昧な結論にたどり着いたのだった。それでも、「鍋倉山」と想定した与喜山の周辺を歩き回ったことに満足して初瀬の地をあとにすることができた。
 
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与喜山と長谷寺に向かう参道:土曜日の10時頃。観光客の姿はほとんど見当たらない。
 
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与喜山中腹の「玉蔓庵跡」(左手の新しい社殿は玉蔓神社、奥の建物は素盞雄神社社務所):
奈良県の地名』の「玉葛庵」の解説文に、本居宣長の『菅笠日記』の文が引用されていた。
宣長という人が、「みな まことらしからぬ中にも」、「なべてそらごとぞとも わきまへで」などと書きつつも、「この玉かづらこそ いとも/\をかしけれ」としていることが面白く感じられた。
 
 「…川辺にいで。橋をわたりて。あなたのきしに。玉葛の君の跡とて。庵あり。墓(ツカ)もありといへど。けふは あるじの尼。物へまかりて。なきほどなれば。門(カド)さしたり。すべて此はつせに。そのあと かの跡とて。あまたある。みな まことしからぬ中にも。この玉かづらこそ。いとも/\をかしけれ。かの源氏物語は。なべて そらごとぞとも。わきまへで。まことに有けん人と思ひて。かゝる所をも かまへ出たるにや。…」【「奈良県の地名」(平凡社 1987年)から引用】
 
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正面の拝殿の奥に本殿。左手に大イチョウ
由緒解説板に「明治41年には延喜式内社鍋倉神社(祭神 大倉比賣命)と合祀せられ…」とある。
また、「鍋倉神社」について、奈良県の地名』では次のような諸説が挙げられている。
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 *「もとは与喜天満神社境内にあり…と伝え…」
 *「長谷寺密奏記(内閣文庫蔵大乗院文書)「鍋倉神 東山ノ頂に座御ス」とみえ、当初、与喜山頂に鎮座したことを記し…」
 *「近世には牛頭天皇素盞雄神社をもって鍋倉社とする説が一般的であった(西国名所図会、大和名所図会)
 *「鍋倉の地名について「相模集」に「(初瀬)に まてつきて房のまへに谷ふかく もみちの多かるを いつくそと とへは なへくら山といふ」とあり…」 
 *「…「鍋倉山」は初瀬山の支峰で、玉葛庵の下、現鎮座地を「鍋倉垣内」といった(西国名所図会、大和名所和歌集)が地名として現存しない」
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与喜天満神社裏参道から見る長谷寺長谷寺をこうした地点から見ることもなかったはず。歌人相模の歌を知ることが無かったならば。
 
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与喜天満神社①:
奈良県の地名』の解説によれば、創祀は天暦2年(948年)で、神像の墨書「正元元年(註:正元元年は1259年) 己未 五月八日」から鎌倉時代初期には鎮座していたことが確認できるという。
一方で、式内社「鍋(堝)倉神社」は10世紀初頭にはすでに名を知られていたとすれば、10世紀後半以降、両社の関係はどのようなものだったのだろうか…。
歌人相模が初瀬に詣でた11世紀前葉には紅葉する木々に覆われていたはずの与喜山(鍋倉山)。
歌人相模は、山名の”鍋”の語から”たき木”の語を喚起して109の歌を詠んだ。私には風変わりな着想に感じられる。無事に長谷寺に参詣することができて、旅の緊張から解放され、心の余裕が生まれたのかもしれない(私も、与喜天満神社式内社「鍋(堝)倉神社」との係わり方や位置関係について、”丼”勘定の理解に終わってしまった)。
 
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与喜天満神社②(「与喜寺跡」からの眺望):
この与喜寺跡と約200m西に位置する素盞雄神社とは、ほぼ同じ高さ(標高170~190m)。
地形図上では、ここから西に向かう道が与喜天満神社裏参道に合流している。同じ標高上の「玉葛庵跡」や素盞雄神社に通じる道と思われる(時間が乏しく、確かめることができなかった…)。
 
      【参考写真: 『enonaiehon 』6月12日付の”日記”に掲載した写真を再掲】
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      苔むす裏参道:こちらは、ゆるやかな坂道(与喜天満神社⇔「玉葛庵跡」・素盞雄神社) 。 
                
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与喜天満神社③:
左手の石灯篭2基は”鍋倉神社旧地”を祀るもの(らしい…)。
中央の岩は、背後の高まりの上に連なる二つの岩とともに”磐座”とされる。
”磐座”の右上は、与喜天満神社の石垣と拝殿の一部。

 

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与喜天満神社④:
拝殿には急な階段が取り付く。
与喜山神社は、与喜山(標高約455m)の南西側中腹の標高約210~220mに位置する(長谷寺本堂もほぼ同じ標高。意識された高さを感じる)。

 

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長谷寺仁王門と参詣客:”善男善女”の言葉が思い浮かぶ門前の雰囲気(できれば私も仲間入りしたかった…)。
 
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長谷寺前から見る与喜山:これまで長谷寺を訪ねた時には名前も知らずに眼にしていた(眼にもしていなかった?)山。次は秋の季節に”鍋倉山”の前に立ってみたいと思う。