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私の第三十四夜をつづります。

歌人相模の初瀬参詣ルートを探して:竜田道②

 歌に名高い「龍田川」…子どもの頃、「アラ・タッタ」と覚えた”百人一首”の歌が、能因が詠んだことを改めて知ったのは、歌人相模のあれこれを調べ始めてからだった。
 (その能因も長寺谷詣でに際し、歌人相模と同じように「伏見の里」を経由しているが、果たして、伏見からどのようなルートを採ったのかは、分かっていない。
 彼は伏見で宿泊したあと、宇治川・木津川を渡り、奈良坂を越えて…という一般的なルートをたどっただろうか? 次の「伏見の里」の歌一首では、想定のしようがないのが残念…。)
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     長谷寺に詣づとて、伏見の里にやどりて
昔こそ なにともなしに 恋しけれ ふしみの里に こよひ舎(やど)りて 
                              (「能因集」:『平安私歌集』 岩波書店 1994年)
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 ”竜田道”…歌人相模の初瀬参詣ルートを考えあぐねていた頃、この”竜田越え”ルートは、もっとも危ぶまれる想定路だった。
 (もし、歌人相模が敢えてそうした道筋…”竜田越え”…を選んだとして、それには何か特別な理由がなければならないだろう。
 ただ、初瀬参詣7首の歌集上の並びを時系列に沿ったものとする限り、7地点を有機的に結ぶためには、やはり、彼女は一般的な参詣路ではなく、変則的なルートを採った、だからこそ、7首の歌を残した…そう考えざるを得ないのだ。)

 まずは21世紀の”竜田道”を歩いてみなければ、と新大阪に向かったのは3月5日。
(体調はまずまずではあったけれど、日帰りの探索に変更した。若い頃にはなかった思慮深さか?怯懦なのか?)

 その日は、行程の便宜上、JR高井田駅からスタートすることにした。
 (歌人相模の初瀬参詣ルートとして、往路を山城国河内国大和国の順序で想定しているため、私も大阪方面から”竜田道”に入ってみた。)
 初めての駅に降りる時のワクワクした気持ち…そして、これから歌人相模が歩いたかもしれない道に向かおうとする武者震いのような期待。久しぶりに、歌人相模とともに歩く気持ちを取り戻すことができた。
 
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大阪市東大阪市方面の眺め(柏原市安堂町のブドウ畑から):
駅からすぐに坂道となり、展望のきく場所で一休みした。
参考にした案内図では「正面にあべのハルカスが見える」とあったが、あの特徴的な姿を確かめることはできなかった。
眼下に広がる都市空間は、平安時代の景観など、想像すべくもないものだった。