2日、図書館で『相模武士団』(関幸彦編 吉川弘文館 2017年)の「保元・平治の乱と相模武士」(川合 康)の一節を読んだ。
その論考の中に、相模国府移遷の時期とその要因について、以下のように言及されていたので、抜粋・引用し、備忘録として残しておきたい。
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(前略)
ところが、これまでの研究によって、相模国府は天養年間(一一四五)から保元三年(一一五八)までの間に、大住郡から余綾郡に移ったことが明らかにされており(「相模国関係図」を参照)、その要因は、余綾郡に根拠をもつ有力在庁の中村氏が、大庭氏と対抗するために、国衙を自らの勢力圏に誘致したものと推定されている[木下 一九七四、石井二〇〇四]。
(後略)
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この一節をよりどころに、相模国府は1145~1158年頃に大磯にへ移遷したこと、その要因として中村氏の関与があったことをふまえて、妄想を続けることができそうだ。
11~12cの相模国府については、これまでも enonaiehon のなかで妄想を広げてきた。いくつかの記事をふり返りつつ、11~12cの相模国府について、今後も迷走を続けてゆきたい。
(以下の enonaiehonの記事 では、相模国府移遷時期にあたる1145~1158年について、新たに太字・赤字で示した)
【「夕されば 尾花おしなみ 吹く風に 玉ぬき乱る 野辺の白露」(1) - enonaiehon (hatenadiary.jp) から(抜粋・まとめ直し)】
~12世紀初頭の相模国と京都の動き~
〇相模国
*天永3年(1112)12月:
相模国司・藤原宗佐卒
≪→1116年、大庭御厨の成立か≫
*永久元年(1113)3月:
横山党(武蔵国)によって“内記太郎”(相模国)が殺害される
「横山党二十余人、常陸・相模・上野・下総・上総五ヶ国国司追討進すべき(『長秋記』)」の宣旨
〇京 都
*永久元年(1113)閏3月:
「永久の強訴」で、検非違使・源重時、藤原盛重などが出動する
≪→1120年に藤原盛重、1127年に源重時の相模国司補任≫
*永久元年(1113)10月:
「永久の変」で三宮・輔仁親王が失脚
三宮護持僧・仁寛が検非違使・藤原盛重に逮捕される
≪→1120年、藤原盛重の相模国司補任≫
*永久4年(1116) 8月:
「雲居寺結縁経後宴歌合」に三宮相模君・三宮甲斐君が出詠する
〇相模国
*永久4年(1116):
大庭御厨の成立か ≪→1144~1145年、源義朝の大庭御厨濫行事件≫
〇京 都
*元永2年(1119)8月:
三宮の子・有仁王が臣籍降下となる
〇相模国
*保安元年(1120)12月:
藤原盛重、国司補任
*大治2年(1127)12月:
源重時、国司補任
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【12世紀の不動明王像 - enonaiehon (hatenadiary.jp) から(抜粋・引用)】
さらに、畿内との繋がりを持つ不動明王像を拝観したことで、これまで中村氏の関与が想定されている国府移遷について、新たな視点が生まれた。12世紀の相模国において、大住府から余綾府への国府移遷を中央に働きかけることが可能な有力者として源義朝を想定できるのではないか・・・源義朝が、中央と中村氏とのパイプ役として、余綾郡への国府移遷に係ったのでないかと想像したのだ(源義朝と熱田神宮大宮司との姻戚関係から、彼と不動明王・八釼神社とを結びつけることもできそうだ。牽強付会の想定ではあるけれど)。
相模国の在地の三浦・波多野・中村氏などとの緊密な関係を保持していた源義朝。その彼が係ったうえでの「12世紀の不動明王像」であり、「12世紀の国府移遷」だったのではないかというのが、今回の不動明王像拝観で得た視点である。
(なお、1月26日は、下吉沢の不動明王像を拝観する前に、上吉沢の八釼神社と妙覚寺を見学した。1142年、持長上人が上吉沢の八釼神社の地に開基したとされる妙覚寺であるが、その大磯丘陵東端の地域に刻まれた”1142年”という年代についても示唆的なものを感じた(1141年義平誕生、1143年朝長誕生、1144~1145年大庭御厨濫行、1147年頼朝誕生・・・の時代であること)。また、現在、大磯丘陵東端には三つの八釼神社があるが、上吉沢の八釼神社が三ノ宮・比々多神社〔伊勢原市〕の所管であるのに対し、下吉沢は六所神社〔大磯町〕であるとうかがった。古代~中世の大住郡と余綾郡との境界線は判然としないが、12世紀の不動明王像については、余綾郡の所生であることを物語っているように感じられた。)…
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【相模守 藤原親弘周辺の動き - enonaiehon (hatenadiary.jp) から(抜粋・引用)】
【相模守 藤原親弘周辺の動き】 青字:相模国の動きと<相模国司>
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【鳥羽離宮跡(2)安楽寿院と相模国 - enonaiehon (hatenadiary.jp) から(抜粋・引用)】
1137(保延3)年 鳥羽御堂供養(安楽寿院の始まり)
1139(保延5)年 本御塔建立(本尊:阿弥陀如来坐像…現在の安楽寿院本尊)
1140(保延6)年 暲子内親王、鳥羽上皇から安楽寿院領などを譲与される
1141(保延7)年 鳥羽上皇落飾(鳥羽法皇)
1140年代 源義朝、相模国の在地豪族と姻戚関係を結ぶ
1142(康治元)年 相模国司(権守)に藤原頼定
(補任当時15歳。のち藤原親弘女婿となる。号は堀河宰相)
1143(康治2)年 美福門院、安房守藤原親忠造営の白河押小路殿に移る
(親忠は美福門院得子の乳母 伯耆の夫)
1144(天養元)年-相模国高座郡〔当時の相模国司は藤原頼憲〕
9月 大庭御厨濫行(義朝郎従清大夫安行ら)。
10月 大庭御厨濫行
(田所目代源頼清、在庁官人、義朝名代清大夫安行、三浦庄司、中村庄司ら)
1145(天養2)年 1月 大庭御厨濫行
1147(久安3)年 九体阿弥陀堂建立
1152(仁平2)年 相模国司に藤原親弘(当時30代半ば? 父親忠は美福門院得子の乳母伯耆の夫)
1152(仁平2)年 藤原親忠、美福門院 八条東洞院泉亭木作の奉行
1153(仁平3)年 源義朝、下野守(従五位下)
藤原親忠卒
1154(久寿元)年-相模国大住郡〔当時の相模国司は藤原親弘〕
12月 糟屋荘設定
1155(久寿2)年 源義朝、右馬助兼務。
近衛天皇崩御(後白河天皇即位)
1156(保元元)年 美福門院出家。
鳥羽法皇、下野守源義朝らに禁中を守護させる
鳥羽法皇崩御(本御塔に土葬)。
保元の乱(崇徳上皇、讃岐に配流)
1157(保元2)年 新御塔建立(美福門院稜とするため)
1158(保元3)年-相模国大住郡〔当時の相模国司は藤原(名欠)…藤原親弘か?〕
「旧国府別宮」(石清水八幡宮領)が平塚市内に存在
(1158年以前に相模国府が大磯に移遷したことを示す)
1158(保元3)年 この頃、故藤原親忠の八条坊門宅が美福門院の御所となる
1159(平治元)年-相模国大住郡〔当時の相模国司は藤原(名欠)…藤原親弘か?〕
糟屋荘、安楽寿院に寄進(藤原親弘の仲介)
1160(永暦元)年 源義朝、殺害される
美福門院、白河押小路殿で崩御
(鳥羽離宮で火葬。遺言により、高野山に埋葬)
1163(長寛元)年 近衛天皇御遺骨、新御塔に改葬
1161(応保元)年 暲子内親王、女院号宣下により八条院と称する
〔参考:1306(嘉元4)年、八条院領中の蓮華心院領として前取荘が存在(平塚市四之宮の前取社を中心に社領が荘園化したものか、とされている)〕
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こうして、過去の記事をふり返るなかで、11~12cの相模国内の動きが、源頼信・義家・義朝らの京都や東国における活動と連動している…との妄想…を再確認することとなった。
また、平塚の地に八幡宮が勧請された契機についても、こうした相模国内の源頼信・義家・義朝らの動きのなかにあったのでは?と改めて考えることとなった(なお、仮に国府移遷以降、八幡宮が現在地に移転したのだとすれば、その動きに源義朝や頼朝が係ったりするのだろうか?)