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私の第三十四夜をつづります。

「夕されば 尾花おしなみ 吹く風に 玉ぬき乱る 野辺の白露」(1)

12世紀初頭の「三宮相模君」~
 
 11世紀初頭、歌人相模が夫の大江公資とともに相模国府に下向した。その100年後の12世紀は、相模国府という一つの歴史舞台の幕引きが始まった時代、相模国府が平塚から大磯へと遷移した時代にあたる。
12世紀初頭、永久4(1116) 8月、京都の雲居寺での結縁経の後宴に歌合(「雲居寺結縁経後宴歌合」)が行われた。その歌人のなかに「三宮相模君」の名がある。その呼称からは、彼女が「三宮」に仕えていたこと、「相模」国に何らかの所縁を持っていたことがうかがえる。
「三宮相模君」という人が生きた時代、相模国府が移りゆく時代とは、どういう時代だったのだろうか。まず、「雲居寺結縁経後宴歌合」が行われた12世紀初頭において、京都と相模国とが絡みそうな動きを抽出してみた。「三宮相模君」の歌は、どこかで12世紀における相模国府遷移の流れにつながってゆくだろうか。
 
12世紀初頭の相模国と京都の動き~
相模国:天永3(1112)12月、相模国司・藤原宗佐卒  ≪→1116年、大庭御厨の成立か≫
永久元年(1113)3月、横山党(武蔵国)によって“内記太郎”(相模国)が殺害される。「横山党二十余人、常陸・相模・上野・下総・上総五ヶ国国司追討進すべき(長秋記)」という宣旨が下される。
京 都:永久元年(1113)3月の「永久の強訴」で、検非違使源重時藤原盛重などが出動する ≪→1120年に藤原盛重1127年に源重時相模国司補任≫
京 都:永久元年(1113)10月、「永久の変」で三宮・輔仁親王が失脚。三宮護持僧・仁寛が検非違使藤原盛重に逮捕される ≪→1120年、藤原盛重相模国司補任≫
京 都:永久4(1116) 8月、「雲居寺結縁経後宴歌合」に三宮相模君・三宮甲斐君が出詠する
相模国:永久4(1116)、大庭御厨の成立か ≪→1145年、源義朝の大庭御厨濫行事件≫
京 都:元永2(1119)8月、三宮の子・有仁王臣籍降下となる
相模国:保安元年(1120)12月、藤原盛重国司補任
相模国:大治2(1127)12月、源重時国司補任
 
 「雲居寺結縁経後宴歌合」が催された時点で、すでに三宮・輔仁親王(10731119)の支持勢力は瓦解していたのだろう。12世紀初頭は白河法皇鳥羽天皇の時代そのもののように思える。この歌合の歌人として、僧侶・入道、散位の人や前職名で記される人、皇后宮や三宮に仕える人などが列している。「雲居寺結縁経後宴歌合」は、結縁経をきっかけとする、おそらく年齢や係り方が近い人々の集まりだったのではないだろうか。そして、そのような宗教的・文学的な舞台においても、「三宮相模君」、「三宮甲斐君」として出詠した歌人たちの足元に、否応なく時代の波、政治の波がひた寄せていたように想像する。