~12世紀初頭の「三宮相模君」~
12世紀初頭、永久4年(1116) 8月、京都の雲居寺での結縁経の後宴に歌合(「雲居寺結縁経後宴歌合」)が行われた。その歌人のなかに「三宮相模君」の名がある。その呼称からは、彼女が「三宮」に仕えていたこと、「相模」国に何らかの所縁を持っていたことがうかがえる。
「三宮相模君」という人が生きた時代、相模国府が移りゆく時代とは、どういう時代だったのだろうか。まず、「雲居寺結縁経後宴歌合」が行われた12世紀初頭において、京都と相模国とが絡みそうな動きを抽出してみた。「三宮相模君」の歌は、どこかで12世紀における相模国府遷移の流れにつながってゆくだろうか。
~12世紀初頭の相模国と京都の動き~
京 都:永久4年(1116) 8月、「雲居寺結縁経後宴歌合」に三宮相模君・三宮甲斐君が出詠する
「雲居寺結縁経後宴歌合」が催された時点で、すでに三宮・輔仁親王(1073~1119)の支持勢力は瓦解していたのだろう。12世紀初頭は白河法皇と鳥羽天皇の時代そのもののように思える。この歌合の歌人として、僧侶・入道、散位の人や前職名で記される人、皇后宮や三宮に仕える人などが列している。「雲居寺結縁経後宴歌合」は、結縁経をきっかけとする、おそらく年齢や係り方が近い人々の集まりだったのではないだろうか。そして、そのような宗教的・文学的な舞台においても、「三宮相模君」、「三宮甲斐君」として出詠した歌人たちの足元に、否応なく時代の波、政治の波がひた寄せていたように想像する。