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私の第三十四夜をつづります。

“三宮相模君”④ ~三宮相模君を源義家室、藤原有綱の娘とする想定~

 
“三宮相模君”とはどのような人なのか?
今回、“三宮相模君”について、その夫の可能性のある相模国司を想定してみようと思った。その作業から、11世紀末~12世紀初頭の相模国の歴史の一端に触れることができるのではないか、という思いもあった。
結果、荒唐無稽なことに、源義家の名が浮上してきた。
“三宮相模君”の夫を源義家とする想定は、次のような都合の良い仮定の上に生まれた可能性にすぎない。あくまでも作業の覚書として、その仮定の積み重ねをまとめてみた。
 
【三宮相模君は源義家室、という想定】
*三宮相模君の生年を1060年前後と仮定
*三宮相模君の三宮輔仁親王家出仕を1080年前後と仮定
源義家の相模守補任時期を1082年前後(下野守~前下野守であった時期と、陸奥守となった時期の間隙を縫う期間)と仮定
〔註〕今回、源義家の相模守補任時期について、1063年以降のいずれかの時点で相模守になったとの前提で、1082年前後と仮定している。“三宮相模君”の生年の仮定と、義家の相模守補任時期の仮定が、今回の最も大きな問題点だ。
 
【三宮相模君は藤原有綱の娘、という想定】
*藤原有綱の娘(義家室とされる)の生年を1060年前後と仮定
源義家の娘(三宮輔仁親王室とされる)の生年を1085年前後、その母を藤原有綱の娘(義家室とされる)と仮定
*藤原有綱の娘(義家室とされる)を三宮相模君と仮定
 
 以上のような、危うい仮定をこじつけながら積み重ねた想定のもとに、“三宮相模君”に思いをはせてみる。
 “三宮相模君”の残した二首の和歌の印象と、“八幡太郎義家”のイメージとの落差が大きく、納得がいかない反面、美女と野獣?の組み合わせの妙味も感じられる。
 たとえ藤原有綱の娘が三宮相模君ではないとしても、108090年代に源義家室となり、源義忠たちの母となった人が存在したし、三宮輔仁親王室とされる源義家の娘が存在したことは確かなのだろうと思う。11世紀末~12世紀初頭の相模国と三宮輔仁親王家とは、果たしてどのような係わりがあったのだろうか。