この妄想にたどり着いた時点で、『摂津守藤原有綱家歌合』(1075年)を催すような貴族の家に生まれた女性と、物々しい甲冑姿のイメージのある源義家、という組み合わせを意外に感じた。一方で、その藤原有綱の娘なら、三宮家に出仕して、歌を詠んだ可能性があるようにも思った。そして、三宮家に出仕する女性として、源義家室という立場がどのような意味をもっていたのだろうか、というさらなる妄想を重ねた疑問も生まれた。
そこで、藤原有綱の娘婿となった源義家について、彼の軍人・武人としてのイメージや評価とは別に、貴族的な(文化を志向する)一面もあったのではないだろうかとの期待をもって、少し調べてみることにした。
“源義家”…これまで、11世紀前半の相模国司の一人である源頼義の長男“八幡太郎義家”として、また父と同じく相模国司の一人として知るのみだった…について、新たに知った一面を書き留めると、次のようになる。
103 ふくかぜを なこそのせきと おもへども みちもせにちる 山桜かな
伊與守源頼義朝臣、貞任・宗任等をせむる間、(中略)貞任たへずして、つゐに城の後よりのがれおちけるを、一男八幡太郎義家、衣河においたてせめふせて、「きたなくも、うしろをば見する物哉。しばし引かへせ。物いはん」といはれたりければ、貞任見帰たりけるに、
衣のたてはほころびにけり
といへりけり。貞任くつばみをやすらへ、しころをふりむけて、
年をへし絲のみだれのくるしさに
と付たりけり。其時義家、はげたる箭をさしはづして帰にけり。さばかりのたヽかひの中に、やさしかりける事哉。」
以上の『千載和歌集』の一首、衣河での連歌のエピソードに基づくとすれば、義家は和歌や連歌をたしなむ人、と言えるようだ。ことに『千載和歌集』に採られた歌からは、素朴な感慨を、習い覚えた和歌という形にとどめてみようと試みる若々しい義家の姿が浮かんでくるようだ(11世紀代までに“勿来の関”を詠んだ歌にどのようなものがあるかを知らないのだけれど、「みちもせにちる」という表現には、馬上の義家が勿来の関にさしかかって眼にした実景の裏打ちがあるように思う)。
このように和歌・連歌をたしなむ人でもあった義家と藤原有綱の娘(三宮相模君?)との結婚時期について、私の妄想上では、前下野守だった義家が、陸奥守兼鎮守府将軍となって赴任する1083年9月以前…1082年前後となっている。そして、今回、その当時の義家の経歴で分かった点は次の通りだ。
同年4月25日:石清水使、前下野守源義家。
この在京の義家(前下野守)の1081年の晴れやかな姿は、藤原有綱の娘を妻に迎えるにふさわしいようにさえ思えるものだ。
といっても、「三宮相模君」と呼ばれる女性が藤原有綱の娘であり、義家室となったがゆえに「三宮相模君」と呼ばれたと想定するためには、もう一つ、高いハードルを越えなければならない。それは、源義家の相模守補任時期が1082年頃、ということが証明されなければならないからだ。