昨年、『新編国歌大観』を眺めていた時、「寛治七年五月五日 郁芳門院根合」に女房方人の名が連なるなか、右女房方人の一人に「伊与 源義綱朝臣女」の名があった。一瞬、「義綱」の娘は歌人だったのだろうか、「伊与」とはどのような人なのか、と興味を持った。しかし、その「伊与」については結局何も分からなかった。
「伊与」を含む右方の女房方人の10名は次の通りだった。
*「典侍 故師家女」、「少輔 故家基女」
〔「伊与」は、祖父・源頼義(伊予守)にちなむのだろうか、それとも、判者・藤原顕季(「伊与守顕季」)に仕えていたからだろうか。〕
昨年は、10名の右女房方人のなかでの「伊与」の位置を考えようとした。そして、少なくとも「伊与」は歌を得意としていなかったのかもしれない、身分も高くなかったようだ…そんなふうに想像した。その想像には、父・「義綱」に抱いていた漠然としたイメージが係わっていたのかもしれない。
2016年2月、大津市で「新羅三郎義光」の墓所に立ち寄った際、伝承の歌が残る「義家」のこと、歌との係わりが残っていない「義綱」のこと、そして歌人であった「三宮相模」や、1093年に催されたという「芳門院根合」の女房方人であった「伊与」のことを思い出した。
そして「義光」には歌を詠む妻や娘がいたのだろうか…などと思った。また、当時の人々にとって、歌を詠むとはどのようなことだったのだろうと、いつもの問いかけがよみがえった。