歌人相模の何かしらの足跡を探してみようとするなかで、11世紀の鎌倉について再び興味をもつことになった。
11世紀の鎌倉に最初に興味を持ったのは、相模国府について学んでいた頃だった。『大磯町史』に挙げられていた11世紀の相模国司としての源頼義・源義家に興味をひかれた。そして、11世紀という時代についても、河内源氏についても、ましてや鎌倉の歴史についても、何も知らなかった(今でも何も知らないことは同じなのだけれど)。
ただ、相模国司の系譜を眺めながら、7世紀末~12世紀末という時代の流れの中で、中央政治にとっての相模国の位置づけが、さまざまに移り変わってゆくイメージを漠然と思い描いていた。そのイメージのなかでも、大江公資(1020年代の相模国司)~源頼義(11世紀前半の相模国司か?)~源義家(11世紀後半の相模国司か?)の時代は、一つの大きな画期のように感じていた。それはまた、大住国府(相模国府)の画期であるようにも感じていた。
その後、12世紀の三宮相模君や内裏相模の歌に出逢い、その”相模”という通称で呼ばれた女性の歌のなかに、11世紀の歌人相模にも通じるような、歴史の流れの跡…中央政治と相模国との係わりの小さな跡…を見つけたように感じた。
その頃から、頼義・義家の東国拠点の一つとして、また”相模”と呼ばれた歌人たちとかすかにつながる地域として、さらには走湯権現との係わりを通して、”11~12世紀の鎌倉”に改めて関心をもつようになったと思う。
といっても、鎌倉の11~12世紀の歴史の跡はどこにあるのだろうか。
歴史の門外漢の私にも、その歴史の跡をたどれそうな地点が観光地図のなかにあった。それが由比若宮(元八幡)と甘縄神明宮だった。
また、材木座から長谷に向かう途中で、図書館にも立ち寄った。地域資料が並ぶ棚から、『鎌倉密教』(2012年 神奈川県立金沢文庫) という図録をたまたま手に取った。バッグやカメラをかけたまま立ち読みしていると、次のような記述が目に飛び込んできた。〔以下、『鎌倉密教』から抜粋・引用させていただく〕
「…頼朝が園城寺から従兄弟の円暁を招いて鶴岡社務に登用した寿永元年(一一八二)頃から、ようやく鎌倉に人材が集まり始めた。円暁の父行恵は仁和寺惣在庁 行宴の子で、仁和寺の血脈に属した。円暁を通じた人脈によって、園城寺と仁和寺を中心に人材を集めたと思われる。…円暁の母は源為義の娘、頼朝の従兄弟にあたる。祖父は、仁和寺惣在庁 行宴 法眼である。…」
おや?と思った。これまで、行恵・円暁という名については、『吾妻鏡』の記述などから、三宮輔仁親王の子・孫(輔仁親王-行恵-円暁)、また源義家女を通じてのイメージ(義家-義家女-行恵-円暁)しかなかったからだ。しかし、『鎌倉密教』では、「輔仁親王」や「義家」の名は登場せず、「円暁」は「源為義の娘」と「行恵」の子、「行恵」は「行俊」の子ということのようだった(為義-為義女-円暁 または行俊-行恵-円暁)。
【註:その後、「行宴」の名を持つ人物について調べてみた。下記の「行宴」(1130~1200)は、「円暁」(1145~1200)の祖父として年代的に符合しない。『鎌倉密教』に記された「行宴」とは別人だろうか。】
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*行宴(1130~1200):仁和寺菩提院住侶 少輔 法眼 。父は総在庁 行俊。
*行宴:「菩提院 改 行延
行宴法眼 少輔 惣在庁 行俊 子
有真僧都附法上足
北院御室御附法重受
正治二年七月七日入滅 七十 」
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こうして、材木座の由比若宮と長谷の甘縄神明宮の地では11世紀代の頼義・義家の姿を妄想し、一方、鎌倉の図書館では予想外の情報を得て少しもやもやとしながら、春の鎌倉で一日を過ごした。
由比若宮(元八幡)の社殿:境内は十数年前とは見違えるように手入れされていた。
由比若宮社殿から見る新旧の松:上屋で保護された手前の「旗立の松」の切り株は直径90cmほど。
春の甘縄神明宮:桜が花開いていなければ、また別の印象がありそうだった。