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私の第三十四夜をつづります。

相模権守・源重之と”こゆるぎの磯”の歌

 相模国府域15遺跡の消長の様相について、その遺跡別・時期別の竪穴建物軒数を見ると、大きく二つのグループに分けることができる。ピークが主として8世紀前半にある遺跡、主として9世紀後半にある遺跡、というふうに。そして、それらのほとんどの遺跡が10世紀には衰退し(註)、六ノ域遺跡と高林寺遺跡を除いて、11世期にはほぼ消滅していく傾向にある。
(註:10世紀前半まで勢いを残す遺跡として、構之内遺跡や神明久保遺跡、山王A遺跡・稲荷前B遺跡がある。)
 これらの遺跡消長の様相とも相まって、実態の見えない相模国庁や国司館、相模国司について、その10世紀以降のあり方などは、より一層とらえようがなかった(国庁や国司館は、その痕跡が遺跡の中で発見される可能性があるのに対し、相模国司については、彼らが実際に平塚に赴任しているのかどうかも、確かめようがなかった)。
 ただ、今回、『相模集』に関連して、「よろぎ」・「こよろぎ」・「こゆるぎ」の歌語を調べる作業のなかで、源重之(天禄2年【971】相模権介、貞元元年【976】相模権守)が、実際に平塚に赴任していた可能性を確認することができた。
 天慶の乱以降の国司…10世紀後半のそれも権守にいたっては、おそらく遙任なのだろうと見なしていた源重之。その人は、家集のなかで次のような歌を残していた。
 
  「 さがみにて
   163  こゆるぎの いそのわかめも からぬみに おきのこなみや だれにかすらむ  」
                                  (『新編国歌大観』 角川書店 1988年)
 
 これまで、相模国司については、繰り返し『大磯町史 1 資料編 古代・中世・近世(1)』を読み返し、源重之についての解説文も何度も読んでいた。しかし、その中で紹介されていた重之の歌(「こゆるぎの磯」を歌った歌)について、実際に確認したことがなかった。
 今回、『新編国歌大観』のなかで、「こゆるぎの磯」の歌を確認した。そして、その歌の前に置かれた「さがみにて」の詞書を眼にして、心が躍った。
 歌人相模より半世紀前に、この人もまた相模国に下向したこと。さらには、「こゆるぎ」の海を眺め、その感動をそのまま歌に詠んだこと。相模国司の現地赴任の痕跡が、三十一文字の歌とその詞書の中にあったこと。そのことを感慨深く思った。歌人相模も源重之も、その自身の作品のなかに相模国での痕跡を残していたのだ。
(ちなみに、源重之の名高い歌…「風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ 砕けてものを 思ふころかな」…この海は、どこの国の海だったのだろうか。)