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私の第三十四夜をつづります。

仁明天皇時代の尾張国司と相模国司

 「尾張における緑釉陶器生産に淳和院が関与していた」と想定する論考(『湘南新道関連遺跡Ⅱ』2009)を読んだ時点で、尾張国司のなかに相模国司や嵯峨源氏仁明源氏と係わる人がいるのだろうか、と調べたことがあった。
 結果、嵯峨源氏である源 弘(845年、尾張国司)と源 定(848年、尾張国司)、滋野貞主(849年、尾張国司。その時期をはさむように、834年・850年に相模国司)、さらに時代は9世紀前半にさかのぼるが、滋野家訳(815年、尾張国司。滋野貞主の父)といった名前に注目しただけで、その当時は終わっていた。
 そして今回、改めて9世紀中葉の尾張国司を見直してみた。
 結果、9世紀中葉の尾張国司のなかに、”橘 氏人”(相模国司の橘岑継・真直の父・氏公の兄弟)の名が見えた。源 弘・源 定・滋野貞主たちの前任国司として、841年に”橘 氏人”が補任されていたのだ。
 この841年という年は、私が相模国司について調べ始めた時に、強く銘記した年だった。それは、源 融(嵯峨天皇の子)が相模国司として登場した年だったからだ。
 また、前年の840年に、大住郡大領・壬生直広主が『続日本後記』に登場したことも、この840年前後の相模国府の特異な状況を示唆しているように感じていた。
 加えて、相模国府域の緑釉陶器の年代を示す用語として、当時、頻繁に読み聞きしていた言葉が”K90(黒笹90号窯式)”であった。その相対年代はおよそ840年~900年と教わっていた。そして、この9世紀中葉~後半こそ、相模国府域がもっとも活発で複雑な様相を見せる時代でもあったのだ。
 その9世紀中葉という時期に、橘 氏人(橘 氏公とともに、仁明天皇の外伯父・外叔父にあたる)や、源 定(父は嵯峨天皇、養父は淳和天皇)が尾張国司となっていることは、見逃すことができない事実のように思う。やはり、この時期の尾張国司補任にも、仁明天皇、母・橘嘉智子嵯峨天皇皇后)、その娘である正子内親王淳和天皇皇后)の影響力が及んだはずだ。
 これらの、天皇や”淳和院”をめぐる縁戚関係と結びつけて、相模国府域出土の緑釉陶器の生産・流通の背景を解き明かせるものかどうか分からない。しかし、いつの時代も、モノ・ヒト・カネの動きは絡み合う・・・そんなふうに想像が及んでいく。