「尾張における緑釉陶器生産に淳和院が関与していた」と想定する論考(『湘南新道関連遺跡Ⅱ』2009)を読んだ時点で、尾張国司のなかに相模国司や嵯峨源氏・仁明源氏と係わる人がいるのだろうか、と調べたことがあった。
結果、嵯峨源氏である源 弘(845年、尾張国司)と源 定(848年、尾張国司)、滋野貞主(849年、尾張国司。その時期をはさむように、834年・850年に相模国司)、さらに時代は9世紀前半にさかのぼるが、滋野家訳(815年、尾張国司。滋野貞主の父)といった名前に注目しただけで、その当時は終わっていた。
そして今回、改めて9世紀中葉の尾張国司を見直してみた。
また、前年の840年に、大住郡大領・壬生直広主が『続日本後記』に登場したことも、この840年前後の相模国府の特異な状況を示唆しているように感じていた。
加えて、相模国府域の緑釉陶器の年代を示す用語として、当時、頻繁に読み聞きしていた言葉が”K90(黒笹90号窯式)”であった。その相対年代はおよそ840年~900年と教わっていた。そして、この9世紀中葉~後半こそ、相模国府域がもっとも活発で複雑な様相を見せる時代でもあったのだ。