相模国府域の9世紀の景観を明らかにしようと、これまで、多量の緑釉陶器の出土(遺跡別出土点数)、相模国司の顔ぶれ(嵯峨源氏・仁明源氏の連続補任)、大住郡大領・壬生直広主の異例な出世(従五位下、外従五位上まで昇進)について、自分なりに考えをめぐらしてきた。それらの特異な様相は、相互に密接に係るものと思われたからだ。
そして、「湘南新道関連遺跡出土施釉陶器の様相と相模国府」(『湘南新道関連遺跡Ⅱ』 財団法人かながわ考古学財団 2009)の論考を読んでからは、提示された想定…「尾張における緑釉陶器生産に淳和院が関与していた」のではないか…が頭を離れなくなった。
その後、「淳和院」については何も分からないままだったが、今回、たまたま、海老名市望地遺跡で古代道路遺構を間近に見たことで、844年に相模介・橘永範が設置した「救急院」のことを思い出した。
(今回の古代道路のルートが、”望地⇔浜田⇔社家〔高座郡側〕~相模川を渡河~岡田〔愛甲郡側〕”となるならば、「救急院」もその渡河地点の隣接地に設置されたのではないかと妄想したことで、相模国司としての橘氏について思い出したのだ。)
その流れで、相模国司・橘岑継と橘真直についても改めて気になり始めた。「淳和院」に繋がりそうな新しい鍵として、”橘嘉智子”(仁明天皇の母、嵯峨天皇の皇后)と”正子内親王”(嘉智子の娘、淳和天皇の皇后)という女性たちの存在が見えてきたからだ。
今日確認した9世紀前半において、橘氏の名が相模国司として見えるのは、830年から851年の約20年間だ(橘岑継〔830年相模権掾、846年・848年相模守〕、橘真直〔851年相模権守〕。橘永範〔844年相模介〕)。