相模国府はなぜ、12世紀中葉には大磯へと移っていたのか。
“休むに似たり”の考えは、今回、鳥羽を訪れたことでほとんど深まることはなかったが、12世紀の鳥羽院政時代の安楽寿院と相模国について、およその流れを整理してみることにした。【註】以下のまとめについては、斉藤亮秋「安楽寿院の歴史」(京都渡来文化ネットワーク 2012年『鳥羽離宮を訪ねて』)、谷川茂「親忠家と俊成」(大阪市立大学 1961年『人文研究』)などを参考にさせていただきました。
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1137(保延3)年 鳥羽御堂供養(安楽寿院の始まり)
1139(保延5)年 本御塔建立(本尊:阿弥陀如来坐像…現在の安楽寿院本尊)
◆1142(康治元)年 相模国司(権守)に藤原頼定(補任当時15歳。のち藤原親弘女婿となる。号は堀河宰相)
1147(久安3)年 九体阿弥陀堂建立
1152(仁平2)年 藤原親忠、美福門院 八条東洞院泉亭木作の奉行
藤原親忠卒
12月 糟屋荘設定
1155(久寿2)年 源義朝、右馬助兼務。
1156(保元元)年 美福門院出家。
1157(保元2)年 新御塔建立(美福門院稜とするため)
「旧国府別宮」(石清水八幡宮領)が平塚市内に存在(1158年以前に 相模国府が大磯に移遷したことを示す)
1158(保元3)年 この頃、故藤原親忠の八条坊門宅が美福門院の御所となる
糟屋荘、安楽寿院に寄進(藤原親弘の仲介)
1160(永暦元)年 源義朝、殺害される
1163(長寛元)年 近衛天皇御遺骨、新御塔に改葬
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なお、相模国司藤原親忠・親弘については、また改めて整理してみようと思う。
現在の安楽寿院
安楽寿院の駒札
東殿:安楽寿院跡出土の景石(安楽寿院収蔵庫敷地内に移築展示。白砂は池を示す)
田中殿:金剛心院跡出土の景石(安楽寿院収蔵庫敷地内)