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私の第三十四夜をつづります。

鳥羽離宮跡(2)安楽寿院と相模国

 相模国府はなぜ、12世紀中葉には大磯へと移っていたのか。
その背景に12世紀の鳥羽院相模国司、在庁官人たちの動きがあるのでは?と想像する一方で、相模国で起きた国府移遷が、なぜ同時代の他国では起きなかったのか、という疑問もある。
“休むに似たり”の考えは、今回、鳥羽を訪れたことでほとんど深まることはなかったが、12世紀の鳥羽院政時代の安楽寿院と相模国について、およその流れを整理してみることにした。【註】以下のまとめについては、斉藤亮秋「安楽寿院の歴史」(京都渡来文化ネットワーク 2012年『鳥羽離宮を訪ねて』)、谷川茂「親忠家と俊成」(大阪市立大学 1961年『人文研究』)などを参考にさせていただきました。
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1137(保延3)年  鳥羽御堂供養(安楽寿院の始まり)
1139(保延5)年  本御塔建立(本尊:阿弥陀如来坐像…現在の安楽寿院本尊)
1140(保延6)年  暲子内親王鳥羽上皇から安楽寿院領などを譲与される
1141(保延7)年  鳥羽上皇落飾(鳥羽法皇
 
1140年代  源義朝相模国の在地豪族と姻戚関係を結ぶ
1142(康治元)年 相模国司(権守)に藤原頼定(補任当時15歳。のち藤原親弘女婿となる。号は堀河宰相)
 
1143(康治2)年  美福門院、安房守藤原親忠造営の白河押小路殿に移る(親忠は美福門院得子の乳母伯耆の夫)
 
1144(天養元)年-相模国高座郡〔当時の相模国司は藤原頼憲〕
9月 大庭御厨濫行(義朝郎従清大夫安行ら)。10月 大庭御厨濫行(田所目代源頼清、在庁官人、義朝名代清大夫安行、三浦庄司、中村庄司ら)  
 
1147(久安3)年  九体阿弥陀堂建立
 
1152(仁平2)年 相模国司に藤原親弘(当時30代半ば? 父親忠は美福門院得子の乳母伯耆の夫)
 
1152(仁平2)年  藤原親忠、美福門院 八条東洞院泉亭木作の奉行
1153(仁平3)年  源義朝、下野守(従五位下)
               藤原親忠卒
 
1154(久寿元)年-相模国大住郡〔当時の相模国司は藤原親弘〕
       12月 糟屋荘設定
 
1155(久寿2)年      源義朝、右馬助兼務。  
             近衛天皇崩御後白河天皇即位)
1156(保元元)年  美福門院出家。
             鳥羽法皇、下野守源義朝らに禁中を守護させる
             鳥羽法皇崩御(本御塔に土葬)。
             保元の乱崇徳上皇、讃岐に配流)
1157(保元2)年  新御塔建立(美福門院稜とするため)
 
1158(保元3)年-相模国大住郡〔当時の相模国司は藤原(名欠)…藤原親弘か?〕

          「旧国府別宮」(石清水八幡宮領)が平塚市内に存在(1158年以前に            相模国府が大磯に移遷したことを示す)

 
1158(保元3)年  この頃、故藤原親忠の八条坊門宅が美福門院の御所となる
 
1159(平治元)年-相模国大住郡〔当時の相模国司は藤原(名欠)…藤原親弘か?〕
          糟屋荘、安楽寿院に寄進(藤原親弘の仲介)
 
1160(永暦元)年    源義朝、殺害される 
                            美福門院、白河押小路殿で崩御(鳥羽離宮で火葬。遺言により、高野          山に埋葬)   
1163(長寛元)年  近衛天皇御遺骨、新御塔に改葬
1161(応保元)年  暲子内親王女院号宣下により八条院と称する
 
〔参考:1306(嘉元4)年、八条院領中の蓮華心院領として前取荘が存在(平塚市四之宮の前取社を中心に社領が荘園化したものか、とされている)〕
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 なお、相模国司藤原親忠・親弘については、また改めて整理してみようと思う。
 
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現在の安楽寿院
 
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安楽寿院の駒札
 
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東殿:安楽寿院跡出土の景石(安楽寿院収蔵庫敷地内に移築展示。白砂は池を示す)
 
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田中殿:金剛心院跡出土の景石(安楽寿院収蔵庫敷地内)
 
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